こんにちは、「さかみちライフ」です。
頭の中の“ぐるぐる”を整理するために、このブログで日々のことを書いています。
双極性感情障害の当事者として、就労B型に通いながら、社会復帰を目指す日々を送っています。
うつと躁の境界線は、思っていたよりもずっと曖昧でした。
診断名としての言葉は、教科書の中でははっきり分かれているのに、
実際の生活の中では、その線がどこにあるのか分からなくなることがよくあります。
今がうつなのか、躁なのか、それともその途中なのか。
朝起きたときの体の重さや、頭の回転の速さだけでは、判断がつかない日もあります。
私がいちばん戸惑ったのは、「調子がいい」と感じる瞬間でした。
少し早起きできて、言葉がすらすら出て、
やろうと思っていたことに手を伸ばせる。
その感覚は、長いあいだ求めていたものでもあります。
でも同時に、「これは上がりすぎていないだろうか」と、
どこかでブレーキを探している自分もいます。
一方で、うつの状態も、はっきりとした底があるわけではありません。
何もできない日が続いたあと、
急に少しだけ動けるようになることがあります。
その変化が希望なのか、反動の前触れなのか、
その場では分からず、ただ様子を見るしかありませんでした。
境界線は、一直線ではなく、波打ちながら続いているように感じます。
就労B型に通うようになってから、
私は自分の気分のゆらぎを、少し違う角度で見るようになりました。
「今日は集中できた」「今日は早めに切り上げた」
その一つひとつが、躁かうつかを決める材料というより、
今の自分の位置を確認する目印のようなものです。
境界線を見極めるというより、
今どの辺りに立っているのかを、静かに確かめる感覚に近いです。
睡眠も、私にとっては大きな手がかりです。
眠れない夜が続くと、
頭は冴えているのに、体はついてこないような感じになります。
逆に、長く眠っても疲れが取れないときは、
世界との距離が少し広がるように感じます。
どちらも、単独では判断できませんが、
積み重なると、境界線の近くにいることを教えてくれます。
気分のゆらぎを理解する、という言葉は、
以前の私には「コントロールすること」と同じ意味でした。
でも今は、理解することと、支配することは違うのだと思っています。
完全に把握できなくても、
「分からないままでも観察する」ことはできる。
その距離感を覚えたことで、
境界線に対する怖さは、少しだけ和らぎました。
躁とうつの間にある時間は、
どちらにも属さない、不安定な場所に感じられることがあります。
でもその場所でしか気づけないこともありました。
無理をすると後で反動が来ること。
休むことにも準備が必要なこと。
そして、状態が変わっても、
生活は続いていくという事実です。
境界線は、越えてはいけない線というより、
行き来しながら暮らすための目安なのかもしれません。
今日の私は、どちらかといえばこちら側、
明日はまた違うかもしれない。
その変化を前提に生活を組み立てることが、
今の私にとっての現実的な理解の仕方です。
気分のゆらぎは、なくすものではなく、
付き合い方を探し続けるもの。
そう思えるようになるまで、時間はかかりました。
それでも、境界線を意識しながら生きている今の私は、
以前よりも、自分の生活に近い場所に立っている気がしています。