双極性感情障害と私の回復ノート

あたらしい朝に向かって、一歩ずつ進む坂道のように。

当事者運動の始まり――声を上げる勇気

双極性感情障害,当事者運動,就労B型,気分の波,社会参加

こんにちは、「さかみちライフ」です。
頭の中の“ぐるぐる”を整理するために、このブログで日々のことを書いています。
双極性感情障害の当事者として、就労B型に通いながら、社会復帰を目指す日々を送っています。

「当事者運動」という言葉を、私はずいぶん後になってから知りました。
最初に聞いたときは、少し大きくて、遠い響きがありました。
どこかの集会や、力のある人たちが前に立って語るもの。
そんなイメージが先に浮かんでしまって、今の自分の生活とは結びつかなかったのを覚えています。

就労B型へ向かう朝、玄関で靴を履きながら、今日は行けそうかどうかを体に問いかける時間があります。
眠りが浅かった朝は、頭の奥に霧がかかったようで、言葉も動作も少し遅れます。
それでも「とりあえず外に出てみよう」と思えた日は、自分の中で小さな線を一本引いたような感覚があります。
その線が、誰かに見せるためのものではなくても、私にとっては確かな選択でした。

当事者運動の始まりは、きっとこうした小さな選択の集まりだったのではないかと思います。
最初から「運動」をしようとして始まったわけではなく、
「これは少しおかしい」「これは苦しい気がする」と感じた瞬間を、言葉にしてみた人がいた。
その声が、誰かの生活と重なり、また別の声を呼んでいった。
そんな静かな流れだったのではないでしょうか。

私自身、声を上げることには今でも迷いがあります。
調子がいいときは、思っていることを話せそうな気がするのに、
気分の波が下がってくると、同じ言葉が急に重くなります。
話したあとに、どっと疲れが出て、帰り道で立ち止まってしまうこともあります。
だから、声を上げるには「勇気が必要だ」と言われる理由も、よく分かります。

このブログを書くことは、私にとっていちばん無理のない形の当事者運動でした。
誰かを説得したり、正解を示したりするためではなく、
「今の私はこう感じている」と、そのまま置いてみる。
うまくまとまらなくても、揺れたままでも、今の言葉として残す。
それだけで、自分の存在が少し輪郭を持つ気がします。

精神医療や制度の話も、当事者運動と切り離せないものだと思います。
ただ、私の場合は、制度の名前や仕組みよりも、日常の感触のほうが先にあります。
診察室でうなずきながらも、どこまで伝えられたのか分からないまま帰る道。
支援員さんとの面談で、調子を言葉にしきれず、沈黙が続く時間。
そうした体験の一つひとつが、後になって「これは声だったのかもしれない」と思えるようになりました。

当事者運動は、特別な人だけが担うものではなく、
今ここで生活している私たちの延長にあるものなのだと思います。
大きな声でなくてもいいし、整った意見でなくてもいい。
今日は何も言えなかった、何も書けなかった、という日も含めての運動。
そう考えると、少し肩の力が抜けます。

声を上げる勇気は、いつも一定ではありません。
近づいたり、遠ざかったりしながら、そのときどきの体調や気分と一緒に揺れています。
その揺れを無理に止めようとせず、今日できる範囲で生活を続ける。
就労B型に通い、眠れたかどうかを確かめながら一日を始める。
今の私にとっては、それ自体が当事者として生きている証のように感じられています。

回復ノートを書くという習慣

こんにちは、「さかみちライフ」です。
頭の中の“ぐるぐる”を整理するために、このブログで日々のことを書いています。
双極性感情障害の当事者として、就労B型に通いながら、社会復帰を目指す日々を送っています。

私には「回復ノート」と呼んでいるノートがあります。表紙は特別なものではなく、文房具屋で手に取った、ごく普通の一冊です。回復の記録、と言うと、何か前向きな成果を書き留めているように聞こえるかもしれませんが、実際はもう少し地味で、静かな内容です。

書いているのは、「できたこと」よりも、「どうだったか」。たとえば、朝起きたときの身体の重さとか、就労B型から帰ってきたときの疲れ方とか。眠れなかった夜に、何時ごろまで天井を見ていたか、というような、数字にも評価にもならないことです。

以前は、気分の記録をつけること自体が、少し緊張を伴っていました。波を管理しよう、予測しよう、早めに手を打とう。そう思うほど、ノートはチェックリストみたいになって、書いたあとに疲れてしまうこともありました。回復ノートに変えてからは、その力みが少し抜けました。

このノートには、目標を書かないようにしています。「来週はもっと動く」とか、「早く元に戻る」とか、そういう言葉は、あえて置いていません。代わりに、「今日は頭がぼんやりしていた」「午後は少しだけ風が気持ちよかった」といった、今ここで起きていたことを書きます。回復を、どこかへ戻ることではなく、通り過ぎている時間として扱いたい、という気持ちがあるからです。

気分が落ちている時期は、ノートを開くのも億劫になります。そんな日は、一行だけ書いて閉じます。「今日は書くのがしんどい」。それで十分だと思っています。白紙にしないことより、無理をしないことのほうが、今の私には大事です📓

不思議なのは、少し調子が戻ってきたときに、過去のページを読み返すと、思っていたよりも生活が続いていたことに気づく点です。落ち込みの中にいた自分も、ちゃんと日付をまたいで、朝と夜を過ごしていた。その事実が、静かに残っています。

回復ノートは、誰かに見せるためのものではありません。整っていなくていいし、矛盾していてもいい。昨日と言っていることが違っていても、そのまま置いておきます。気分の波の中で変わっていく感覚を、無理に一本の線にまとめないための場所、という感じです。

就労B型に通う生活の中でも、このノートは役に立っています。作業量が少なかった日や、早退した日のあとに、「今日はここまでだった」と書くことで、その一日を失敗として閉じずに済む。できなかった理由を分析するより、「そういう日だった」と記すだけで、心が少し静まります。

回復ノートを書く習慣は、回復を早めてくれる魔法ではありません。気分の波がなくなるわけでも、睡眠が急に整うわけでもない。でも、波の中にいる自分を、そのまま残しておける場所がある、という感覚は、思っていた以上に支えになります。

最近は、書いたページを読み返さない日も増えました。ノートは、記録というより、置き場所に近づいている気がします。その日その時の感覚を、いったん外に出して、机の上に置いておく。必要になったら、また開けばいい。開かなくても、それでいい。

回復ノートを書くという習慣は、私にとって、「ちゃんと回復しなきゃ」という焦りから、少し距離を取るためのものです。戻ろうとしなくても、今はここにいる、と書いていい場所。今日もまた、そんな一行を書いて、ノートを閉じました🌱

自分を管理しない、見守るという発想

こんにちは、「さかみちライフ」です。
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双極性感情障害の当事者として、就労B型に通いながら、社会復帰を目指す日々を送っています。

少し前まで、私は自分をかなり細かく「管理」していました。気分の上下を記録して、睡眠時間を気にして、調子が良さそうならブレーキをかけ、落ちそうなら先回りして対策を考える。やっていること自体は、今でも大切だと思っています。ただ、その頃の私は、常に自分を点検していて、休んでいる時間にもどこか緊張が残っていました。

管理しているつもりが、いつのまにか監視に近づいていたのかもしれません。少し疲れただけで「これは危険かも」と判断して、眠れない夜には「またリズムが崩れた」と自分に印をつける。そうやって評価を重ねるうちに、今どう感じているかよりも、正しく振る舞えているかどうかが、頭の中心に居座っていました。

ある日の就労B型の帰り道、急に何も考えたくなくなりました。今日が良かったのか、無理をしたのか、判断する力が残っていなかったんです。ただ歩いて、信号を渡って、家に帰った。それだけの流れが、不思議と心地よくて、「管理しなくても今日は終わるんだな」と思いました。その感覚が、今もどこかに残っています。

それから、「見守る」という言葉を意識するようになりました。管理する、というと、正しい方向へ導くイメージがありますが、見守る、には、すぐに結論を出さない感じがあります。起きられなかった朝も、「立て直さなきゃ」と反射的に考える代わりに、「今日は身体がそう言っている」と眺めてみる。良いとも悪いとも決めずに、そういう朝として置いておく。その距離感が、私には合っている気がしました。

見守る姿勢に変えてから、時間の流れが少し緩やかになりました。答えを急がなくていい分、一日の中に余白が生まれます。遅れている感じがしても、「今はここにいる」と言える場所が足元に残る。それだけで、気持ちが大きく揺れにくくなりました。

もちろん、何もしないわけではありません。通院もするし、薬も飲むし、就労B型にも行ける日は行きます。ただ、それらを「ちゃんとできているかどうか」で自分を裁かないようにしています。できたか、できなかったかより、どういう状態だったかを、静かに確認するだけです。

見守る、というのは放っておくこととは少し違います。観葉植物に水をあげるときみたいに、毎日引っ張ったりはしないけれど、枯れていないか、光は足りているか、そっと見る🌿 そのくらいの関わり方です。気分が下がっているときほど、この距離が助けになります。「早く戻らなきゃ」と思わなくていいぶん、落ち込みが必要以上に広がらずに済みます。

夜、眠れない時間も、以前ほど戦わなくなりました。管理していた頃は、時計を見て焦っていましたが、今は「今日は眠りにくい夜」と名前をつけるだけ。眠れなかった事実が、そのまま夜の一部として残る感じです🌙

自分を見守るという発想は、優しいようで、実は少し勇気がいります。コントロールを緩める分、不確かさも一緒に引き受けるからです。それでも今の私は、すべてを握りしめるより、手を少し開いたほうが呼吸がしやすいと感じています。

このやり方が、これからも続くかは分かりません。また管理したくなる日も来ると思います。そのときはそのときで、「今はそうしたいんだな」と気づけたらいい。今日は、自分を管理しないで見守る、という今の感覚を、ここに置いておきます🌱

“落ち込み”を怖がらなくなるまで

こんにちは、「さかみちライフ」です。
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双極性感情障害の当事者として、就労B型に通いながら、社会復帰を目指す日々を送っています。

私は長いあいだ、「落ち込み」をとても怖がっていました。気分が下がりはじめる気配を感じると、身体のほうが先に構えてしまって、肩がこわばり、呼吸が浅くなる。またあの状態に引きずり込まれるんじゃないか、という予感だけで、一日全体が少し暗くなる感じがありました。

以前の私は、落ち込みをできるだけ早く見つけて、できるだけ小さいうちに抑え込もうとしていました。睡眠時間を整えて、予定を減らして、気分の変化を細かくチェックして。今思えば、それは自分を守るための行動でもあったけれど、その裏側には「落ち込んではいけない」という強い前提があった気がします。

実際に落ち込んでしまった日は、身体が重くて、床と距離が近くなります。時計の音がやけに大きく聞こえたり、窓の外の明るさが、自分とは無関係な世界みたいに感じられたりします。就労B型に行けない朝、連絡を入れるためにスマホを手に取るだけで、指先に少し力が入ります📱 その一つひとつが、「また来てしまった」という感覚を強めていました。

それでも、何度も同じような落ち込みを経験するうちに、少しずつ感覚が変わってきました。落ち込みが消えたわけではありません。ただ、「このまま終わらないのでは」という恐怖が、以前ほど強くなくなってきたんです。落ち込んで、動けなくなって、それでも時間は進んで、ある日ふと朝の光が少しだけやわらかく感じられる。その繰り返しが、身体のどこかに残ったのだと思います。

怖がらなくなった、というより、「知っている状態」になった、というほうが近いかもしれません。雨が降ると分かっている日に、傘を持って出かける感じ☔ 濡れないわけではないけれど、ずぶ濡れになる前提で外に出るのとは、少し違います。

落ち込みの最中に、前向きな言葉はあまり役に立ちません。頑張ろうとか、気分転換しようとか考えるほど、かえって疲れてしまうこともあります。最近は、「今は低いところにいる」「今日は動きが鈍い日」と、状況を説明するような言葉を心の中で使うようになりました。感情と自分をぴったり重ねないことで、少し距離が生まれる気がします。

睡眠が乱れると、落ち込みはより重たくなります。夜中に目が覚めて、天井を見つめながら、「明日はどうなるんだろう」と考える時間🌙 答えは出なくても、「今はそういう夜」と受け取れるようになると、怖さが膨らみすぎずに済みます。

就労B型のスタッフさんに「今日は無理そうです」と伝えるときも、以前より淡々と話せるようになりました。申し訳なさがゼロになったわけではないけれど、「今は波が低いです」と事実を共有している感覚に近づいています。自分を責める時間が短くなるだけで、落ち込みの居心地は少し変わります。

“落ち込み”を怖がらなくなるまで、特別な出来事があったわけではありません。うまくいかなかった日、何もできなかった午後、それでも一日が終わって、夜が来て、朝が来た。その積み重ねの中で、「落ち込んでいる自分も、ちゃんと時間の中にいる」という実感が、少しずつ育ったのだと思います。

今でも、落ち込みの入口に立つと、胸の奥がひゅっとします。怖さがなくなったわけではありません。ただ、「また戻ってくるかもしれない」という感覚が、以前より近くにあります。落ち込みと完全に切り離されるのではなく、一緒にいられる距離を測っている感じです🚶‍♂️

今日は、そんな今の感覚を書いてみました。また別の波が来たら、感じ方も変わると思います。その変化も含めて、今ここで生きている私の一部として、ここに置いておこうと思います🌱

医療の進歩がもたらした“自由”と“孤独”

こんにちは、「さかみちライフ」です。
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双極性感情障害の当事者として、就労B型に通いながら、社会復帰を目指す日々を送っています。

通院の帰り道を歩いているとき、私はときどき、自分がずいぶん「自由な場所」に立っているな、と感じます。薬の種類も、量も、飲む時間も、生活の組み立て方も、医師と相談しながら決められる。昔の精神医療の話を知るほど、そのことははっきりします。決められた道を進むしかなかった時代に比べて、今の私は分かれ道の前に立たされている、そんな感覚です。


 

この自由は、確かにありがたいものです。勝手に決められない安心感があって、「あなたはどうしたいですか」と聞かれること自体が、ひとつの尊重だと感じています。自分の体調や感覚を言葉にし、それが治療に反映される可能性があるというのは、以前なら考えにくかったことだと思います。

でもその一方で、自由は静かな孤独も連れてきました。選べる、ということは、選んだ結果を引き受ける時間が増える、ということでもあります。薬を少し減らしてみた週、朝は軽く起きられたのに、夕方になると気分がざわついて落ち着かなくなる。逆に量を戻すと、今度は身体が重くなって、就労B型の作業中に時計ばかり気になってしまう。どちらが正解なのか、その場では分からないまま、感覚だけを抱えて過ごします。

「どう思いますか」「どちらを選びますか」と聞かれるたび、答えを探して自分の内側を覗き込みます。でも、はっきりした言葉が見つからない日も多い。その分からなさの中に、ひとりで立っている感じがあって、それが私にとっての孤独なのかもしれません。

睡眠のことも同じです。眠れるようにする方法は、たくさん提示されます。生活リズム、光の調整、薬の工夫。頭では理解しているのに、夜になると目が冴えて、天井を見つめている時間があります🌙 うまくいかない理由を、すべて自分で管理している感覚になると、心が少し冷えるような気がします。

制度や支援が整ってきたことも、医療の進歩のひとつだと思います。就労B型という場所があって、「今日は少なめでもいい」と言ってもらえる環境がある。そのおかげで、私の生活は確実につながっています。ただ、制度が整っても、気分の波の感触や、理由のはっきりしない落ち込みを、完全に共有できるわけではありません。最終的にそれを体で引き受けるのは、やっぱり私ひとりです。

医療の進歩がくれた自由は、「自分の人生に関わる権利」を私に渡してくれました。同時に、その人生をどう扱うかを、毎日問い直す時間も与えています。その問いの前で、誰とも話さずに立っている瞬間が、孤独として立ち上がってくることがあります。

それでも今は、その孤独を急いで埋めなくてもいいのかな、と思っています。分からないまま考えている時間も、選べる時代に生きている証のような気がするからです。診察室を出て、処方箋をポケットに入れ、外の空気を吸う。そのとき私は、自由と孤独の両方を同時に持って歩いています🚶‍♀️ 重さは日によって違うけれど、どちらも今の私の現実です。

今日は、そんな感覚をそのまま書いてみました。また気分の波が動いたら、見え方も変わると思います。その変化ごと、今ここで生きている私の感触として、そっと置いておこうと思います🌱

「支え合う」という言葉の中にある難しさ

こんにちは、「さかみちライフ」です。
頭の中の“ぐるぐる”を整理するために、このブログで日々のことを書いています。
双極性感情障害の当事者として、就労B型に通いながら、社会復帰を目指す日々を送っています。

「支え合いましょう」という言葉を聞くと、胸の奥が少しあたたかくなります。
同時に、どこかで肩がこわばる感じもあります。
今日はその、あたたかさとこわばりが同時にやってくる感覚について、今の私の言葉で書いてみようと思います。

就労B型に通い始めたころ、「ここは支え合いの場所ですよ」と説明を受けました。
確かに、誰かが体調を崩したら自然と作業を代わったり、無理をしないよう声をかけ合ったりします。
それはとても静かで、押しつけがましくない優しさで、最初は救われる気持ちがしました。

でも、気分の波が大きい日が続くと、その「支え合い」が、少し重たく感じる瞬間も出てきます。
今日は作業に集中できない、と身体が先に知らせてくるのに、
「みんな頑張ってるから」「支え合ってるんだから」という空気が、背中にそっと手を置いてくる感じがするんです。
強く押されているわけではないのに、前に進まなきゃいけない気がしてしまう🚶‍♂️

たぶんそれは、言葉そのものが悪いわけではなくて、
「支え合う」という言葉の中に、いろんな意味が詰まりすぎているからだと思っています。
助けてもらうこと、助けること、期待すること、期待されること。
その全部が、同じ袋に入っている感じです。

私は今、助けてもらう側にいる時間が長いです。
眠りが浅い日が続くと、朝の光がやけに眩しくて、身体が鉛みたいに重くなります。
そんな状態で「支え合い」を考えると、
「私はちゃんと誰かを支えられているんだろうか」と、静かに不安になります。

社会参加という言葉も、似たところがある気がします。
参加すること自体が良いこと、前向きなこと、という前提が強くて、
立ち止まっている自分が、どこか未完成みたいに感じてしまうことがあります。
でも実際には、立ち止まっている時間にも、確かに生活が流れていて、
その中で感じたり、考えたりしていることは、ちゃんと「今ここ」にあります。

支え合うことがしんどくなるとき、私は「距離」のことを考えます。
近すぎると息苦しくて、遠すぎると寒い。
その間の、ちょうどいい距離は日によって違っていて、
昨日は心地よかった距離が、今日は少し近すぎることもあります。

だから最近は、「今日は少し離れていたいです」と言える場所でありたいな、と思っています。
支え合う、ではなく、並んで座る、くらいの感じ🪑
同じ方向を見ていなくてもいいし、会話がなくてもいい。
ただ、同じ空間にいる、というだけで十分な日もあります。

偏見や制度の話題になると、「もっと理解が広がれば」「もっと支え合いが必要だ」と言われることが多いです。
それも確かに大切な視点だと思います。
でも同時に、理解や支援が、少しだけ人の形からずれてしまう瞬間もある、
そのことも忘れずにいたいな、と今は感じています。

「支え合う」という言葉が、私の中で完全に腑に落ちる日は、まだ来ていません。
でも、違和感を覚えながらも考え続けている、この時間自体が、
今の私にとっての現実で、生活なんだと思います。

今日はここまで書いて、少し肩の力が抜けました。
また気分の波が来たら、考えも変わるかもしれません。
それでも、その都度「今はこう感じている」と言葉にできたらいいな、と思っています🌱

SNSが変えた「当事者の声」

こんにちは、「さかみちライフ」です。
頭の中の“ぐるぐる”を整理するために、このブログで日々のことを書いています。
双極性感情障害の当事者として、就労B型に通いながら、社会復帰を目指す日々を送っています。

スマホの画面を指でなぞると、いろいろな声が流れてきます。
軽やかな報告も、息切れしたつぶやきも、誰かの生活の途中みたいな言葉も。
私は今、布団の上に座っていて、胸の奥が少しざわざわしています。
調子がいいとも悪いとも言い切れない、曇りの日の午後みたいな感覚です☁️

SNSに出会う前、私は「当事者の声」という言葉を、どこか遠くのものとして見ていました。
本や講演、きれいにまとめられた体験談。
役に立つし、勇気づけられることもあるけれど、
そこには「今この瞬間の揺れ」があまり映っていなかった気がします。

今は、画面の向こうに、生活の温度を保ったままの声があります。
眠れなかった夜のつぶやき。
就労B型から帰ってきて、靴を脱ぐ前に書かれた一言。
薬の効き目が強すぎた日の、ぼんやりした感想。
私はそれを読みながら、肩の力が少し抜けるのを感じています。

私自身も、ときどき言葉を置いてみます。
整っていない文章。
結論もオチもない、途中のままの気持ち。
投稿ボタンを押す指は少し震えるけれど、
「今ここにいる」という証拠を、そっと残すような感覚があります。

SNSは、強い言葉が目立つ場所でもあります。
元気いっぱいの成功談や、断定的な意見。
気分の波が高い日に読むと、心が引っ張られてしまうこともあります。
そんなときは、そっと画面を閉じます。
逃げるというより、呼吸を整えるための間、みたいなものです。

それでも、SNSがなかった頃には戻れないな、と今は思っています。
病名を名乗らなくても、名乗ってもいい。
今日は何も書けなくても、読んでいるだけでもいい。
そのゆるさが、私には合っています。

XInstagramで流れてくる当事者の声は、
制度や診断名よりも先に、「人の生活」を見せてくれます。
それは、精神医療の歴史を学ぶときに感じる、少し硬い空気とは違って、
台所の匂いや、夜更けの静けさを伴っています。

偏見が消えたわけではありません。
誤解も、乱暴な言葉も、今もあります。
でも同時に、誰かが誰かの投稿に「わかる」とだけ残していく場面もあります。
その短い一言が、私の一日を少し柔らかくしてくれることがあります。

私は今、社会参加の入り口に立っていて、
外の世界と距離を測りながら歩いています。
SNSは、その距離を伸ばしたり縮めたりできる、細いリボンみたいな存在です。
強く引っ張れば切れそうだけど、
そっと持てば、ちゃんとつながっている。

当事者の声は、完成形じゃなくていい。
揺れていて、矛盾していて、途中で止まってもいい。
私は今日も、画面の向こうで息をしながら、
「今の私」を、そのまま置いています📱