双極性感情障害と私の回復ノート

あたらしい朝に向かって、一歩ずつ進む坂道のように。

学校で学ぶ“心の教育”のこれから

こんにちは、「さかみちライフ」です。
頭の中の“ぐるぐる”を整理するために、このブログで日々のことを書いています。
双極性感情障害の当事者として、就労B型に通いながら、社会復帰を目指す日々を送っています。

最近、ニュースやSNSで「心の教育」という言葉を見かけることが増えました。道徳の時間だったり、メンタルヘルスの授業だったり、呼び方はいろいろだけれど、「心の扱い方を学校で学ぶ」という流れは、少しずつ広がっているように感じます。私はそれを聞くたびに、教室の椅子に座っていた頃の自分の背中の感覚を思い出します。

黒板の文字を追いながら、なぜか胸の奥がざわざわして、理由もなく焦っていたあの時間。みんなと同じように笑っているつもりなのに、内側だけが別の季節にいるような感覚。あの頃の私は、「元気に見えるか」「ちゃんとできているか」が大事で、自分の気分の波に名前をつける余裕なんてありませんでした🌊

もしあの教室で、「今日は理由のない不安があってもいい」「気分には波がある」と、誰かが静かに言ってくれていたら、私は少し違う呼吸をしていたかもしれません。正解を覚える授業ではなくて、今ここにある気持ちをそのまま置いておける時間。心の教育が向かう先は、もしかしたらそういう場所なのかな、と今は思います。

私は今、就労B型に通いながら生活のリズムを整えています。睡眠が浅い日もあれば、体が鉛みたいに重い朝もあります☁️ でも、「今日はこういう調子」と言葉にできるだけで、少しだけ自分との距離が縮まります。心の教育がもしあるなら、こうした“言葉にする練習”が含まれていたらいいな、と感じます。

心って、テストみたいに点数をつけられないし、通知表にも書ききれないものですよね。それなのに、学校では知らないうちに「こう感じるのが正しい」「こう振る舞えるのが立派」と、見えない基準が積み重なっていく気がします。私はその基準に合わせようとして、ずいぶん長いあいだ無理な姿勢で立っていました。

心の教育がこれから目指す場所は、「強くなること」や「前向きになること」だけじゃなくて、「揺れても戻ってこられる場所を知ること」なのかもしれません。社会参加とか、自立とか、そういう言葉は大きくてまぶしいけれど、その前に必要なのは、自分の内側で起きていることを怖がらずに眺める力なのだと思います。

偏見という言葉も、私は学校でちゃんと習った記憶がありません。代わりに、空気を読むことや、みんなと同じでいることを覚えました。その結果、違いを抱えた人の沈黙が、どれほど重たいかを知るまでに、ずいぶん時間がかかりました。心の教育が、誰かを理解するためというより、「分からなさと一緒にいられる力」を育てるものだったらいいな、と感じます。

今の私は、回復の途中にいます。過去を振り返りながら、今の感覚を確かめる毎日です。学校で学ぶ“心の教育”のこれからを考えるとき、未来の子どもたちのためだけじゃなく、かつて子どもだった自分にも、そっと毛布をかけるような気持ちになります🫶

心は教えられるものというより、出会い直すものなのかもしれません。答えは出なくても、問いを持ち続けること。それを許される場所が、教室のどこかにあったらいい。今は、そんなことを静かに考えています。