こんにちは、「さかみちライフ」です。
頭の中の“ぐるぐる”を整理するために、このブログで日々のことを書いています。
双極性感情障害の当事者として、就労B型に通いながら、社会復帰を目指す日々を送っています。
精神医療の歴史、という言葉を聞くと、私は少し身構えてしまいます。
教科書の中の出来事のようで、どこか重たく、今の自分の生活とは距離があるように感じてしまうからです。
でも、体調が比較的落ち着いている日に、断片的にその歴史を知ると、不思議と胸の奥がざわつきます。
それは恐れというより、「これは他人事じゃない」という感覚に近いものでした。
昔の精神医療では、「守る」という名目で人が隔離されてきた時代がありました。
治療という言葉の裏側で、自由が制限され、生活の選択肢が奪われていた。
頭では理解していても、もし自分がその時代に生きていたら、と想像すると、体が少しこわばります。
今こうして外に出て、就労B型に通い、自分のペースで一日を組み立てていることが、
実はとても新しい価値観の上に成り立っているのだと、後から気づきました。
「尊厳」という言葉も、私は長いあいだ抽象的に捉えていました。
大切なもの、守られるべきもの。
そう言われるとその通りなのですが、実感としてはつかみにくかったのです。
でも、精神医療の歴史をかすかにたどりながら、自分の生活に引き寄せて考えると、
尊厳はもっと日常的なところにあるのだと思うようになりました。
例えば、診察室で話す内容を、自分の言葉で選べること。
調子の説明がうまくできなくても、「それでもいい」と扱われること。
今日は無理だと感じたときに、無理をしない選択が許されること。
そうした小さな場面の積み重ねが、私にとっての尊厳でした。
精神医療の歴史を振り返ると、
「本人のため」という言葉が、本人の声を置き去りにしてきた場面も少なくありません。
だからこそ今、「当事者の声」が大切にされるようになってきたのだと思います。
ただ、声を上げること自体が負担になることもある、という現実も、同時に存在しています。
尊厳とは、常に発言できる状態であることではなく、
黙っている自由も含まれているのではないかと、私は感じています。
私自身、制度や医療に支えられながら生活しています。
その一方で、説明しきれない違和感や、言葉にならない感覚を抱えたまま、
診察室を後にすることもあります。
それでも、「分からないままでも関係が続く」という状態が保たれていることは、
過去の歴史と比べれば、大きな変化なのかもしれません。
尊厳は、立派な理念として守られるだけでなく、
日々の関わりの中で、少しずつ確かめ直されるものだと思います。
精神医療の歴史を知ることは、
「今の当たり前」が偶然ではないことを思い出させてくれます。
そして同時に、これから先も問い続けていく必要がある、という静かな宿題を残します。
私は今日も、波のある気分のまま生活しています。
完全に安定しているわけでも、すべてが納得できているわけでもありません。
それでも、自分の生活を自分の時間として感じられている。
その感覚こそが、今の私にとっての「尊厳」なのだと思っています。