こんにちは、「さかみちライフ」です。
頭の中の“ぐるぐる”を整理するために、このブログで日々のことを書いています。
双極性感情障害の当事者として、就労B型に通いながら、社会復帰を目指す日々を送っています。
「共に生きる」という言葉は、少し眩しい響きがあります。
手を取り合うような、あたたかいイメージ。
でも私の現実は、もっと静かで、ぎこちなくて、時々立ち止まります。
それでも、ひとりで生きるより、誰かの気配があるほうが、呼吸が深くなる瞬間があります。
今朝、就労B型へ向かう準備をしながら、玄関で少し迷いました。
今日は行けそう。
でも、途中で疲れるかもしれない。
そんな予感が、胸の奥で小さく揺れます。
「無理しなくていいよ」という声を、過去に誰かからもらった気がして、靴ひもを結びました。
共に生きる、というのは、常に一緒にいることではないのだと思います。
同じ速度で歩くことでも、同じ気分でいることでもない。
ただ、互いの存在を前提に、今日を組み立てていくこと。
私にとっては、それくらいの距離感が、ちょうどいいです。
作業室で、隣の席の人が静かに紙を揃える音を立てていました。
言葉は交わさなくても、同じ時間を過ごしている。
その事実だけで、心が少し安定します。
孤独が消えるわけではないけれど、輪郭がやわらぐ感じです。
双極性の波が大きいと、人との距離感が難しくなります。
元気なときは、つい近づきすぎてしまう。
調子が落ちると、すべてから離れたくなる。
その振れ幅を、どう説明していいかわからず、黙ってしまうこともあります。
それでも、完全にひとりで抱え込むより、
「今日は静かにしています」と伝えられる関係があると、救われます。
理解されるかどうかより、伝えようとする余地があること。
それが、共に生きる選択の土台なのかもしれません。
帰り道、夕方の空を見上げました。
雲が低くて、色がにじんでいます。
誰かと並んで歩く日もあれば、ひとりで帰る日もある。
どちらの日にも、生活はちゃんと続いていく。
そのリズムを、誰かが知っていてくれると思うと、少し安心します🌆
社会参加という言葉の中にも、「共に」が含まれている気がします。
役割を分け合うこと。
無理な日は補い合うこと。
すべてを同じにしなくても、場を共有できること。
就労B型での経験は、その感覚を、体で教えてくれました。
夜、家に戻って、明日の予定をぼんやり考えます。
決めきれないまま、カレンダーを閉じる日もあります。
それでも、誰かに「またね」と言える場所がある。
次に行く場所が、完全な未知ではない。
それだけで、眠りに入りやすくなる日があります。
共に生きるという選択は、覚悟というより、試行錯誤に近いです。
近づきすぎたら、少し離れる。
離れすぎたら、また声をかけてみる。
その繰り返しの中で、自分の波と、他人の生活が、少しずつ重なっていく。
今日も、完璧ではありません。
言えなかったことも、伝えすぎたかもしれないこともあります。
それでも、誰かの存在を前提に一日を終えられた、という感覚が、胸に残っています🌱
今ここで生きている、この感覚のまま。
ひとりで生ききれない私が、
それでも選び続けている、「共に生きる」という形。
静かに、でも確かに、今日も続いています。