双極性感情障害と私の回復ノート

あたらしい朝に向かって、一歩ずつ進む坂道のように。

“ゆっくり”が怖かったあの頃――立ち止まることに名前がなかった時間

こんにちは、「さかみちライフ」です。
頭の中の“ぐるぐる”を整理するために、このブログで日々のことを書いています。
双極性感情障害の当事者として、就労B型に通いながら、社会復帰を目指す日々を送っています。

「ゆっくりでいいよ」と言われるたびに、胸の奥がざわっとしていました。優しい言葉のはずなのに、私の中では、時計の針が逆回転するような感覚があって、足元が不安定になる。立ち止まることが、そのまま取り残されることに直結していた、あの頃の記憶です。

当時の私は、速さでしか自分の存在を測れませんでした。人より遅れること、休むこと、様子を見ること。どれも「負け」に近い響きを持っていて、できるだけ避けたかった。身体は重く、頭は霞んでいるのに、気持ちだけが先に走っていました。

「ゆっくり」は、怠けや甘えの別名だと、どこかで思い込んでいたのかもしれません。周りの流れに乗れない自分を、必死に隠して、同じ速度で歩いているふりをする。帰宅してドアを閉めた瞬間、どっと疲れが押し寄せる。そんな日が続いていました。

眠りも浅くて、夜と朝の境目が曖昧でした。布団に入っても、身体だけが横になって、意識は立ったままのような感じ。早く休めばいいのに、と頭では分かっているのに、止まる勇気が出なかったのだと思います。

就労B型に通い始めてから、「ゆっくり」という言葉の重さが、少しずつ変わってきました。急がなくていい、と言われたとき、最初は戸惑いました。どのくらいが「ゆっくり」なのか分からなくて、周囲の様子を何度も確認しました。

でも、ある日、作業の途中で手が止まっている自分に気づいたとき、責める声よりも先に、呼吸の深さを感じました。胸が少し楽で、肩の力が抜けている。何も進んでいないようで、実は、身体がちゃんとここに戻ってきていたのかもしれません。

「ゆっくり」は、速度の問題ではなく、関係の問題なのだと、今は思います。時間と自分との距離。詰めすぎないこと。置いていかれないために走るのではなく、今いる場所を確かめるために立ち止まること。

もちろん、今でも怖くなる瞬間はあります。周りが進んでいるように見えるとき、私だけが足踏みしている気がするとき。そのたびに、胸がきゅっと縮んで、昔の感覚が顔を出します。

それでも、「ゆっくり」を選んだ日には、夕方の空の色に気づけたり、湯気の立つマグカップを両手で包めたりします。速さを緩めた分だけ、戻ってくる感覚がある。それは、小さいけれど、確かな手応えです。

“ゆっくり”が怖かったあの頃の私に、今の言葉を届けることはできません。ただ、今ここで、怖さを抱えたまま、少しだけ歩幅を狭めている自分がいます。それでいい、と言い切ることはまだできないけれど、そう感じている時間が、確かに増えました🍵