双極性感情障害と私の回復ノート

あたらしい朝に向かって、一歩ずつ進む坂道のように。

「自分を守る距離」を見つける――近づきすぎず、離れすぎずに生きるために

こんにちは、「さかみちライフ」です。
頭の中の“ぐるぐる”を整理するために、このブログで日々のことを書いています。
双極性感情障害の当事者として、就労B型に通いながら、社会復帰を目指す日々を送っています。

「距離」という言葉を聞くと、人と人の間のことを思い浮かべがちですが、私にとっては、自分自身との距離のほうが、ずっと難しいテーマでした。近づきすぎると息が詰まり、離れすぎると、どこにいるのか分からなくなる。そんな感覚の中で、長いこと揺れていた気がします。

調子がいいときの私は、つい無理をします。人の期待に応えたくなって、頼まれごとを断れず、予定を詰め込みます。その場では元気に笑っているのに、家に帰ると、身体の奥が空っぽになっている。あれは、自分との距離が近すぎた状態だったのかもしれません。

反対に、調子が落ちているときは、世界から一歩引いてしまいます。連絡を返すのが怖くなって、カーテンを閉めたまま、時間だけが過ぎていく。誰にも傷つけられない代わりに、誰の声も届かない。その距離は、守りでもあり、孤立でもありました。

就労B型に通うようになって、「ちょうどいい距離」というものを、少しずつ身体で覚えてきた気がします。毎日顔を合わせるけれど、無理に踏み込まれない。話したい日は話し、黙っていたい日は黙っていられる。その関係性が、私の呼吸を楽にしてくれました。

「自分を守る距離」は、線を引くことではないのだと思います。バリアを張る、というより、クッションを置く感じ。相手の言葉が直接胸に刺さらないように、少しだけ余白をつくる。そうすると、不思議と相手の存在そのものを否定せずにいられます。

自分に対しても同じです。今日はできなかった、また失敗した、と責める声が聞こえたら、少し離れて眺めます。「そう思っているんだね」と、心の中でつぶやく。ぴったり重ならないことで、感情に飲み込まれずにすみます。

距離は、日によって変わります。昨日は心地よかった近さが、今日は苦しいこともある。そのたびに微調整するのは、正直、面倒です。でも、その面倒くささこそが、生きている実感なのかもしれません。

人権とか、自己防衛とか、難しい言葉に置き換える前に、私はただ、「今日はどのくらい近づけるか」「どのくらい離れたいか」を、身体に聞いています。胸の重さ、肩のこわばり、呼吸の深さ。答えは、案外、言葉になる前に出ています。

「自分を守る距離」を見つけることは、完成するものではなく、更新され続けるものだと思います。今の私は、まだ探している途中です。それでも、近づきすぎて苦しくなった過去の私より、少しだけ、自分にやさしくなれている気がします🍃

 
 

“波”と暮らす知恵――気分のうねりと同じ部屋で呼吸するために

こんにちは、「さかみちライフ」です。
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双極性感情障害の当事者として、就労B型に通いながら、社会復帰を目指す日々を送っています。

私の毎日には、いつも“波”があります。高く持ち上げられる日もあれば、足首をすくわれるように沈む日もあって、同じ朝でも、空の色が違って見えます。天気予報のように正確に分かればいいのに、と思うこともありますが、実際はもっと気まぐれで、身体の奥から静かに動き出します。

以前の私は、波をなくそうとしていました。穏やかで一定であることが「普通」だと信じていて、揺れが出るたびに、自分を叱っていた気がします。でも、どれだけ踏ん張っても、波は来る。抵抗すればするほど、呼吸が浅くなっていきました。

今は、波と同じ部屋で暮らしている、という感覚に近いです。追い出そうとせず、でも振り回されすぎない距離を探す。それは知恵というより、毎日の小さな試行錯誤の積み重ねかもしれません。

たとえば睡眠。調子がいいときほど夜更かしをしたくなって、頭は冴えているのに、身体は置いていかれる感じがします。そんな日は、布団に入ってもすぐ眠れません。完璧な睡眠を目指すのはやめて、「横になって目を閉じているだけでもいい」と自分に言います。それだけで、少し肩の力が抜けます😌

就労B型に通うようになってから、「波がある前提」で予定を組むようになりました。週に何日、何時間、と数字で区切るより、「今日はここまでできたら十分」と線を引く。できなかった日は、できなかった理由を探すより、身体の重さや、頭のざわつきをそのまま受け取ります。

波が低い日は、世界が遠く感じます。人の声がガラス越しに聞こえるようで、自分だけが少し遅れている気がします。そんなときは、無理に追いつこうとせず、目の前の小さなことに触れます。マグカップの温度、窓から入る風、ペンの重さ。現実に戻るための、ささやかな錨のようなものです。

逆に波が高い日は、何でもできそうな気がして、言葉が次々に浮かびます。楽しい反面、どこか危うさもあります。そんなときは、一歩引いて、ノートに書くだけにする。動き出す前に、紙の上で波を眺める時間をつくります✍️

「知恵」というと、立派な方法論のようですが、私のそれは、とても個人的で、失敗だらけです。昨日うまくいったことが、今日は通用しないこともあります。それでも、「波がある私」で暮らすことを前提にすると、不思議と自分を責める声は小さくなりました。

社会参加という言葉も、以前は重たく感じていました。ちゃんと働くこと、迷惑をかけないこと。今は、「今日、外に出て、人と同じ空間にいた」という事実だけで、十分だと思える日があります。それも、波と折り合いをつけながら得た感覚です。

波は、なくなりません。たぶん、これからも一緒に生きていくのだと思います。だからこそ、押し合うのではなく、少し横に並んでみる。そんな暮らし方を、今も探しています🌊

 
 

医療と人権――「閉じ込める医療」からの脱却

こんにちは、「さかみちライフ」です。
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「医療」と「人権」という言葉を並べると、少し背筋が伸びる感じがします。どちらも大切で、正しいもので、でも私の生活の中では、もっと曖昧で、手触りのあるものとして存在しています。

はじめて入院したときのことを思い出すと、今でも胸の奥がきゅっと縮む感じがします。病室の白い壁、決まった時間に配られる薬、鍵の音。悪いことをしたわけではないのに、どこか「ここから出てはいけない」という空気に包まれていました。頭の中は騒がしかったのに、身体は静かに、ベッドの上に置かれているような感覚でした。

あの頃の私は、「治療だから仕方がない」と自分に言い聞かせていました。医療は助けるものだと信じたかったし、信じるしかなかったのだと思います。でも、あとから振り返ると、「守られていた」というより、「管理されていた」という言葉のほうが、身体の感覚には近い気がします。

「閉じ込める医療」という表現を知ったのは、ずいぶん後になってからでした。それを読んだとき、強い怒りが湧いたわけではなく、ただ、ぽつんと置かれていた記憶に名前がついたような、不思議な静けさがありました。私が感じていた息苦しさは、気のせいではなかったのかもしれない、と。

今は就労B型に通っています。朝、少し眠たい目で支度をして、同じ時間に同じ場所へ向かう。その単調さが、今の私にはちょうどいいです。ここでは、私のペースが尊重されます。調子が落ちている日は無理をしなくていいし、言葉が出てこない日は、黙って作業をしていても咎められません。

それは、とても小さな「自由」ですが、確かに人として扱われている感覚があります。閉じ込められていない、というだけで、呼吸が少し深くなるのです。

医療がすべて悪かったとは思っていません。薬に助けられた夜もありましたし、支えてくれた人もいました。ただ、「安全のため」「本人のため」という言葉の裏で、本人の声や感覚が置き去りにされてしまうことが、確かにあったと感じています。

人権というと、大きな理念のように聞こえますが、私にとっては「今日は窓を開けたい」「今は一人でいたい」といった、ごくささやかな選択の積み重ねです。それを奪われないこと。それだけで、回復の道のりは、少し違って見える気がします。

「閉じ込める医療」からの脱却、という言葉は、まだ途中経過のようにも感じます。制度も、社会の目も、すぐには変わらないでしょう。でも、少なくとも私は、今ここで、自分の足で外の空気を吸っています。その感覚を、大事に抱えながら、生きていきたいと思っています🌱

福祉と労働のあいだで揺れる気持ち

こんにちは、「さかみちライフ」です。
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双極性感情障害の当事者として、就労B型に通いながら、社会復帰を目指す日々を送っています。

「今は福祉の段階ですね」「次は労働を目指しましょう」
そんな言葉を聞くたびに、私は胸の奥で小さく揺れます。どちらも間違っていないし、道筋としては分かりやすい。でも、自分の一日一日の感覚は、そんなにきれいに区切れないな、と感じるのです。

就労B型に通う朝、玄関で靴を履きながら、今日は“働く日”なのか、“守られる日”なのか、分からなくなることがあります。作業をして、報告をして、時間を守る。それは確かに労働に近い感覚です。でも、途中で体調を崩せば、休んでいいと言われる。その安心は、福祉の温度を帯びています。

このあいだの宙ぶらりんの感じが、私は少し苦手で、でも同時に救われてもいます。完全な労働者でもなく、完全な利用者でもない。どちらにも片足ずつ置いて、バランスを取っているような状態です🫧

世の中では、「働けるか」「働けないか」という二択で語られることが多い気がします。でも実際には、その間に広いグラデーションがあって、私は今、その真ん中あたりを行ったり来たりしています。調子のいい日は、もっとやれそうな気がして、少し前に出たくなる。調子が落ちると、福祉という言葉にしがみつきたくなる。

以前の私は、「労働=価値」「福祉=一時的なもの」と、どこかで思っていました。だから、福祉に長くいる自分に、後ろめたさを感じることもありました。ちゃんと社会に出ていない、遅れている、そんな言葉が、頭の中で小さく鳴る日もあります。

でも今は、その考えも少しずつほどけています。福祉の中で過ごす時間は、止まっているわけじゃなくて、調整している時間なのだと感じるからです。睡眠を整える、体の声を聞く、人と関わる練習をする。そのどれもが、私にとっては“生きるための作業”です🍃

労働の側に完全に立てない自分を、責めないようにするのは、簡単ではありません。周りのペースと比べてしまう日もあります。それでも、今日できたことをひとつひとつ確かめながら、「今はここにいる」と言えるようになりました。

福祉と労働は、対立するものではなく、連続しているものなのかもしれません。行き来しながら、自分の速度を探す。その途中で立ち止まることも、遠回りすることも、私には必要でした。

今の私は、そのあいだで揺れています。どちらかに早く決めなくてもいい、と自分に言い聞かせながら。今日の体調、今日の気分、今日の空気。その全部を材料にして、明日を考える。それだけで、今は十分だと思っています。

揺れながらでも、ここに立っている。その感覚を、大事に抱えています。

 
 

「支援」と「依存」のあいだで

こんにちは、「さかみちライフ」です。
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「それって、依存じゃない?」
支援の話をしていると、どこかで聞こえてくる言葉です。誰かに言われたわけじゃなくても、頭の中で勝手に再生されることがあります。私はそのたびに、胸の奥に小さな重りが置かれるのを感じます。

就労B型に通うようになって、支援という言葉は日常になりました。送迎、作業の配慮、体調に合わせたスケジュール。どれも、今の私が生活を続けるために必要なものです。でも同時に、「これに慣れすぎたらどうなるんだろう」と、ふと立ち止まる瞬間もあります。

朝、体が重いときに「無理しなくていいですよ」と言われると、ほっとします。その言葉に、肩の力が抜けて、呼吸が深くなる。でも、その安心のあとに、「自分で越えなくていいのかな」というざらっとした感触が残る日もあります☁️

支援と依存の境目って、線で引けるものじゃない気がします。今日は支えられて歩いて、明日は自分の足で立つ。あるいは、その逆もある。私はその行き来をしながら、毎日の調子を測っています。どちらかに振り切れるというより、揺れながら真ん中を探している感じです。

以前の私は、「人に頼らないこと」が自立だと思っていました。苦しくても笑って、体調が悪くても黙っている。それが大人になることだと、どこかで信じていた気がします。でもその姿勢は、私の中の小さな不調を、気づかれないまま積み重ねてしまいました。

今は、頼ることも練習のひとつだと思っています。今日はここまでならできる、ここからは手伝ってほしい。そうやって言葉にするのは、意外とエネルギーがいります。依存しているように見えないか、甘えていると思われないか。そんな考えが、頭をよぎることもあります。

それでも、支援を受けながら生活している今の私は、以前より自分の輪郭を感じています。疲れたら休む、難しい日は難しいと言う。その選択ができるだけで、世界との距離が少し縮まりました🍃

依存という言葉には、「自分で立てていない」という響きがあります。でも、支援の中で過ごす日々は、必ずしも受け身だけではありません。今日は出かける、今日は休む。その判断を自分でしている限り、私はちゃんとここにいる、と感じます。

もしかしたら、「支援」と「依存」は対立するものじゃなくて、同じ地図の中にあるのかもしれません。どこに立つかは、その日の体調や心の天気で変わる。固定された場所じゃないからこそ、迷いも生まれます。

今の私は、その迷いごと抱えています。支えられながら、少しずつ自分の足に体重を戻す。その過程を、急がずに続けたい。誰かの手を借りる日も、自分で歩く日も、どちらも私の一日です。

今日はそのあいだに、静かに立っています。

 
 

“見えない障害”を可視化する時代へ

こんにちは、「さかみちライフ」です。
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「見えない障害」という言葉を、最近よく耳にするようになりました。ポスターや研修資料、SNSの投稿。少し前までは、そんな言葉自体が、今ほど表に出ていなかった気がします。私はそれを目にするたびに、胸の奥で小さく何かが動くのを感じています。

私の障害は、外からは分かりません。歩き方も、話し方も、服装も、たぶん平均的です。調子のいい日は、特に何も言われません。でも、だからこそ、しんどいときに「大丈夫そうだね」と言われると、体の内側だけが取り残される感じがします。

就労B型に通い始めた頃も、最初は少し戸惑いました。説明をすると、相手は理解しようとしてくれる。でも、その理解が「分かった気がする」で止まってしまうこともあります。見えないものを説明するって、思っている以上に体力がいります🫧

最近は、ヘルプマークや配慮を求める表示など、「見えないものを見える形にする」工夫が増えてきました。それはとても大切な変化だと思います。同時に、可視化されることで、別の緊張が生まれることも、私は感じています。名札をつけるように、自分の状態を常に提示している感覚。安心と引き換えに、少しだけ息を詰めるような。

可視化って、光を当てることでもありますが、影もはっきりさせてしまうんですよね。理解が進む一方で、「じゃあ、どこまでできるの?」「これは配慮が必要?」と、線を引かれる場面も出てきます。その線の上で、私は今もバランスを取っています。

それでも、名前があること、言葉があることに、救われる瞬間があります。以前の私は、ただ「調子が悪い人」「気分にムラがある人」でした。今は、「そういう特性がある」と言える。完全に安心できるわけじゃないけれど、自分を責める時間は、少し減りました。

心の教育や職場の研修で、「見えない障害」が語られるようになった今、私はひとつ願っています。それは、分かろうとしすぎなくていい、という空気が広がること。全部理解できなくてもいい。ただ、急かさないこと、決めつけないこと。その余白があるだけで、ずいぶん違います。

私自身も、まだ自分の状態をうまく言葉にできない日があります。今日は説明できる気がしない、今日は黙っていたい。そんな揺れも含めて、「見えない」ということなのだと思います。

可視化の時代は、きっと始まっています。でもそれは、すべてを明るく照らすというより、暗闇に目が慣れていく過程なのかもしれません。急に昼になるわけじゃない。少しずつ、輪郭が見えてくる。その途中に、私はいます。

今日も、自分に見えないものを抱えたまま、外に出ています。それでいいと、今は思っています。

 
 

「治る」ではなく「生きていく」という希望

こんにちは、「さかみちライフ」です。
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「治りますか?」
この言葉を、これまで何度聞いてきただろうと思います。病院でも、制度の説明でも、そしてときどき善意の会話の中でも。私はそのたびに、少しだけ背中がこわばるのを感じてきました。

“治る”という言葉は、まっすぐで、分かりやすくて、希望の形をしているように見えます。でも私の身体にその言葉を置くと、なぜかうまく収まりません。どこかが浮いて、息が浅くなる感じがします。

双極性感情障害と診断されてから、時間はゆっくり進みました。調子のいい日もあれば、世界の色が一段階落ちる日もあります。睡眠が整ったと思ったら、数日後にはまた崩れる。そういう波の中で、「治るかどうか」をゴールにしてしまうと、私はいつも途中で立ち尽くしてしまいました。

今は、「どう生きていくか」という問いのほうが、少しだけ手触りがあります。朝起きて、今日は外に出られそうか、音がつらくないか、体が重すぎないかを確かめる。就労B型に向かう道で、季節の匂いを吸い込む。それだけで一日が終わる日もあります🍃

それでも、「生きていく」という言葉は、私にとって無理のない希望です。完璧を目指さなくていいし、一直線じゃなくていい。立ち止まっても、戻っても、そのままでもいい。その前提があるだけで、肩の力が少し抜けます。

以前の私は、「回復=元通りになること」だと思っていました。でも今は、元通りにならなくても、生きやすい形を探していいのだと感じています。気分の波がある自分、疲れやすい自分、社会参加に時間がかかる自分。その全部を抱えたまま、今日をやり過ごす。それも立派な“続いている”状態なのだと思います。

制度や支援の話になると、どうしても段階や目標が並びます。一般就労、安定、再発防止。どれも大切だけれど、その言葉の間にある、名もない日々の感覚は、なかなか拾われません。私はその隙間で、コーヒーを飲んだり、布団から出られなかったりしながら、静かに時間を重ねています☕️

「治る」という希望が合う人も、もちろんいると思います。でも少なくとも今の私は、「生きていく」という言葉のほうが、足元を照らしてくれます。遠くを照らす強い光じゃなくて、夜道を歩くための小さな灯りみたいなものです。

回復の途中にいる今、私は未来を大きく描いていません。ただ、今日を終えて、また明日が来る。その繰り返しの中で、少しずつ自分の輪郭を確かめています。「治らなくても、生きていていい」そう思える瞬間が、希望なのかもしれません。

今は、そんな場所に立っています。