双極性感情障害と私の回復ノート

あたらしい朝に向かって、一歩ずつ進む坂道のように。

“安定”を求めすぎないという知恵

こんにちは、「さかみちライフ」です。
頭の中の“ぐるぐる”を整理するために、このブログで日々のことを書いています。
双極性感情障害の当事者として、就労B型に通いながら、社会復帰を目指す日々を送っています。

「安定していますか」と聞かれると、少しだけ言葉に詰まります。はい、と即答できる日もあれば、何をもって安定と言うのだろう、と考え込んでしまう日もあります。気分の波があることを前提に生きていると、安定という言葉は、つかもうとすると形を変えるもののように感じられます。

以前の私は、安定を強く求めていました。毎日同じ時間に起きて、同じ量の作業をして、同じ気分で眠りにつく。そうできない自分を、どこかで責めていたと思います。波が立つたびに、生活の土台が崩れるような不安がありました。心臓の奥がざわつき、呼吸が浅くなるあの感じは、今も記憶に残っています。

就労B型に通うようになってから、安定の捉え方が少し変わりました。今日は集中できる時間が短い、今日は手がよく動く。その違いを、失敗や後退として扱わない空気の中に身を置くことで、「揺れていても続いている」という感覚が芽生えました。揺れを消すのではなく、揺れながら立っている、そんなイメージです。

睡眠も同じです。毎晩同じように眠れないことは、今もあります。眠れなかった朝は、体が重く、視界に薄い霧がかかったようです。それでも、「今日はこういう日」と静かに認めることで、無理に平常に戻そうとする力が抜けました。結果的に、回復までの時間が短くなった気がしています。

安定を求めすぎない、というのは、投げやりになることではありません。むしろ、自分の状態を細かく観察し、調整する知恵に近いと感じています。今日は休む、今日は少しだけ頑張る。その選択を日々積み重ねることが、長い目で見たときの持続につながっているようです。

社会の中では、安定していることが前提にされがちです。一定のパフォーマンス、一定の感情。そこから外れると、説明を求められる場面もあります。そのたびに、胸の奥がきゅっと縮む感覚があります。でも、すべてを分かってもらおうとしなくてもいい、と最近は思えるようになりました。必要なところだけ伝え、あとは自分の中で守る。その距離感も、一つの知恵だと感じています。

気分の波は、完全になくなるものではありません。海のように、凪の日もあれば、風の強い日もあります。大切なのは、常に凪でいようとすることよりも、荒れたときにどうやって戻ってくるかを知っていることなのかもしれません。私にとっての安定は、固定された状態ではなく、戻る場所があるという感覚です。

今日の私は、特別に調子がいいわけでも、悪いわけでもありません。その中間にいます。その中間を許せるようになったことが、今の生活を支えています。“安定”を求めすぎないことで見えてきたこの感覚を、これからも大事にしていきたいと、静かに感じています。

ピアサポートが社会を変える

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双極性感情障害の当事者として、就労B型に通いながら、社会復帰を目指す日々を送っています。

ピアサポートという言葉を初めて聞いたとき、正直なところ、少し遠い概念に感じていました。支援の一種で、制度の中にあるもの。そんな印象が先に立って、生活の実感とは結びついていなかったのです。でも、実際に当事者同士で言葉を交わす時間を重ねるうちに、その距離は静かに縮まっていきました。

同じ経験をしている、という共通点は、不思議な安心感を生みます。説明しきれない感覚を、無理に説明しなくていい。気分の波の話も、眠れない夜の重さも、「わかる気がする」と返ってくるだけで、胸の奥が少し温かくなります。励まされるわけでも、答えをもらうわけでもありません。ただ、同じ地面に足をつけている感じがします。

就労B型の中でも、そんな場面はあります。作業の合間の短い会話や、休憩時間の沈黙。言葉が少なくても、同じリズムで過ごしている時間が、支えになっていると感じることがあります。支援者との対話とはまた違う、横並びの感覚。上下でも前後でもなく、隣です。

ピアサポートは、個人の安心にとどまらない力を持っているように思います。当事者の声が集まることで、これまで見過ごされてきた不便さや違和感が、輪郭を持ち始めます。制度や社会の仕組みは、遠くて固いものに見えますが、生活の中の小さな声が重なれば、少しずつ形を変えていく。その可能性を、私は肌で感じています。

偏見について話すときも、ピアの場では言葉が途切れにくいです。怒りや悲しみをそのまま置いても、否定されない。感情が行き場を失わずに済むと、外の世界に戻る力が、わずかですが残ります。それは社会参加のための、大切な下地だと感じています。

「社会を変える」という言葉は大きく聞こえます。でも、私にとっての変化は、とても静かなものです。今日は誰かの話を聞いた。今日は自分の話を少しだけした。その積み重ねが、孤立を薄め、関係の質を変えていく。結果として、それが社会の空気を変えていくのかもしれません。

ピアサポートは、誰かを導くものではなく、共に立ち止まるものだと思います。同じ場所で、同じ空を見上げる。その時間が、私たちの生き方を肯定し、社会に新しい余白を作っていく。そんな感触を、今日も静かに抱えています。

 
 

支援者との対話――「治す」から「共に」へ

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支援者の方と話す時間は、私にとって少し緊張を伴うものです。部屋に入る前、胸の奥で小さく呼吸が浅くなり、背中に薄い膜が張るような感覚があります。何を話せばいいのか、どこまで話していいのか。気分の波が穏やかな日でも、その揺れは残っています。

以前は、対話の中心に「治す」という言葉が置かれているように感じていました。数値やチェック項目、できたこと・できなかったことが机の上に並び、私はその横に立たされているようでした。悪くはないのですが、どこか自分の体温が伝わらない。言葉が乾いて、手触りを失っていく感じがありました。

就労B型に通い始めてから、少しずつ空気が変わりました。作業の合間、窓から入る光の角度や、昨日の眠りの質について話す時間が増えました。眠れた夜は肩が軽く、眠れなかった朝は足元が重い。その重さをそのまま言葉にしても、急いで修正されない。支援者は、メモを取りながら、同じ速度でうなずいてくれます。

「治す」から「共に」へ。そう言い切るほど劇的ではありません。ただ、横に並んで歩く距離が、少し近づいた気がしています。私は患者である前に生活者で、今日は雨が気になる人でもあります。その重なりを、そのまま置いておける対話は、思った以上に息がしやすい。

気分の波が高い日は、言葉が先に走り、低い日は沈黙が長くなります。どちらも、私の体の反応です。支援者がそれを「調整対象」だけにしないで、生活のリズムとして受け止めてくれるとき、胸の奥の硬さがほどけます。制度の話や支援計画の話も、その延長線上に置かれると、紙の音がやわらぎます。

偏見について話すこともあります。外の世界で浴びる視線や、説明しなければならない場面。言葉にするたび、喉が乾きます。でも、否定も肯定も急がず、「そう感じるのですね」と返ってくると、感情が居場所を見つける。励まされなくても、結論がなくても、それで十分な日があります。

精神医療の歴史や制度の話題が出ることもありますが、難しい言葉は少なめに、今の生活にどう影を落としているかを確かめます。過去の積み重ねが今の仕組みを作っている、と静かに共有するだけで、責める気持ちが少し遠のきます。

対話は、成果を急がない作業だと思います。今日の私は、昨日の続きで、明日の途中です。支援者と「共に」考える時間は、地図を広げるようなもの。道が見えなくても、紙を風に押さえながら、今いる場所を確認する。その行為自体が、私を社会に留めてくれています。

帰り道、足取りは軽くも重くもない中間です。その中間にいられることが、今はありがたい。治るかどうかではなく、今日をどう過ごしたか。その手触りを持ち帰れる対話が、静かに続いていけばいいと感じています。

 
 

共生社会のこれから――“私”から“私たち”へ

こんにちは、「さかみちライフ」です。
頭の中の“ぐるぐる”を整理するために、このブログで日々のことを書いています。
双極性感情障害の当事者として、就労B型に通いながら、社会復帰を目指す日々を送っています。

「共生社会」という言葉を耳にすることが増えました。障害の有無だけでなく、病気、年齢、国籍、働き方、家族の形――あらゆる違いを前提にしながら、生きていく社会のことです。しかし、この言葉は“理念”として語られることが多く、実際にどうしたら実現できるのかをイメージしにくいのも事実です。私自身、双極性障害を抱えて生きる中で、共生社会という言葉に「期待」と「距離感」の両方を抱いていました。

共生社会の出発点は、“私”の世界から一歩外に踏み出すことだと思います。自分が抱える困りごとや弱さを隠すのではなく、必要な場面では「助けを求めてもいい」と思えること。それは簡単なようで、とても勇気のいることです。精神疾患を抱えていると、どうしても「迷惑をかけてしまうのではないか」「理解されないのではないか」という不安が先に立ち、口を閉ざしてしまいます。私も長いあいだ、“私の中だけで完結させよう”としすぎて、苦しみを大きくしてしまったことが何度もありました。

けれど、“私のために助けを求める”という行動は、実は社会を“私たち”へ広げる最初の一歩でもあります。誰かが声をあげることで、同じ苦しみを抱えている別の誰かが「話していいんだ」と感じられるようになる。その連鎖が少しずつ社会の空気を変えていきます。共生社会は政策や制度だけで作られるものではなく、ひとりひとりの経験と行動の積み重ねから生まれるものなのだと思います。

また、共生社会を考えるうえで忘れたくないのは、「支える側」と「支えられる側」は固定されないということです。今日、私が助けてもらう側であっても、明日は誰かを助ける側になるかもしれない。双極性障害を経験したからこそ、同じように揺れている人の言葉により深く寄り添えることがあります。弱さは劣っている証拠ではなく、分かち合いの入り口になることもある。そう気づいたとき、自分自身の姿が少しずつ変わっていきました。

“私たち”という視点に立つためには、社会の受け皿づくりも欠かせません。就労の場が多様化していくこと、家族ではなく社会全体で支え合う仕組みが整うこと、精神疾患への理解が進むこと。そうした環境があって初めて、個人は自分のペースで社会と関われるようになります。私が就労B型という選択肢に救われたのも、まさに「中間の場所」があったからです。一般就労に戻るための階段ではなく、“その人がその人らしく働ける場所”として社会に存在していることに意味があります。

共生社会は、完璧さを求める社会とは対極にあります。誰もが強いわけではないし、安定しているわけでもない。病気になることもあるし、立ち止まることもあります。そんな当たり前の人間らしさを受け入れ合いながら生きるために、社会はもう少し柔らかくていい。効率や生産性だけでは測れない価値を認める柔らかさこそ、共生社会の核心だと感じます。

そして何より、当事者が自分の言葉で語ることは、共生社会の未来を形づくる大きな力になります。声を上げた瞬間に、沈黙が対話へと変わり、“個人の経験”が“社会の学び”へと変化していくからです。私も小さな声ではありますが、このブログを通して少しずつ発信を続けていきたいと思っています。「私はこんなふうに生きている」と言える社会は、きっと誰もが安心して暮らせる社会につながっていくはずです。

共生社会の本当のスタートラインは、遠い未来ではなく、今ここにあります。“私”の世界から、“私たち”へ。小さな一歩を丁寧に積み重ねながら、そのつながりの輪を広げていけたらと思います。

1950年代の精神医療――薬が登場する前の時代

こんにちは、「さかみちライフ」です。
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双極性感情障害の当事者として、就労B型に通いながら、社会復帰を目指す日々を送っています。

1950年代という時代は、精神医療にとって大きな転換点となる直前の時代でした。いま私たちが当然のように受けている薬物療法――抗精神病薬抗うつ薬気分安定薬など――がまだ一般的ではなく、精神疾患を抱える人々はまったく異なる環境で治療を受けていました。その背景を知ることは、現代の医療がどれほど進んだのか、そして「支援とは何か」を考える手がかりになります。

当時の治療の中心は「薬」ではなく、環境や身体に直接働きかける方法でした。代表的なものが電気けいれん療法(ECT)やインスリン昏睡療法でした。今日のECTとは違い、麻酔が十分に使われていなかった時期もあり、患者にとって負担が大きかったとされます。こうした治療は「症状を抑える」目的で行われましたが、現在のように副作用や長期影響を科学的に検証する体制は整っていませんでした。

また、人々は長期間にわたり精神科病院に入院させられることが一般的で、「地域で支える」という概念はまだ芽生えていませんでした。特に日本では病床数が増え続け、「入れること」そのものが管理の方法だと誤解されていた時代でもあります。家庭や社会では精神疾患がタブー視され、「語ってはならないもの」として扱われることも多く、患者本人の意思よりも家族の判断や地域の習慣が優先されがちでした。

1950年代を象徴する出来事のひとつが、クロルプロマジンという抗精神病薬の登場です。これは精神医療に革命的な変化をもたらしました。「薬を使って症状を落ち着かせる」という考え方が初めて広く認識され、過剰な身体的治療に頼らなくて済む道が開けたのです。しかし、それが一般的に普及するにはまだ時間がかかりました。現場には昔ながらの治療方法が長く残り、薬物療法と旧来の方法が混在する時代が続きました。

この時代を見つめると、精神疾患を「管理すべきもの」と捉える社会の偏見がいかに強かったかがわかります。本人の苦しみは語られず、医療側が一方的に決める構造が当然とされていました。それは、当事者の声がほとんど届かなかった時代でもあります。

現代に生きる私たちは、薬物療法心理療法・生活支援・地域ケアなど、多様な選択肢を持っています。私自身、気分安定薬がなければ生活の基盤をつくることは難しかったと思います。医療の進歩によって、双極性障害と共に暮らす人々が「社会の中で生きる」という当たり前の未来を描けるようになったことは、決して当然ではありません。

1950年代の精神医療を振り返ることで、今の治療が「ここまで来た」という事実を改めて感じます。そして同時に、当事者の声が置き去りにされてきた過去を知ることは、これからの医療が向かうべき方向を示してくれます。
つまり、「本人の人生に寄り添う医療」へどう歩み続けるかということです。

過去の歴史を理解することは、今の私たちが受けている支援を見直す視点にもつながります。時代は変わりましたが、当事者の苦しみや孤独は、いつの時代にも共通しています。だからこそ、学び続け、声を上げ続け、よりよい支援を作っていくことが必要なのだと思います。

当事者が発信する意味――沈黙から対話へ

こんにちは、「さかみちライフ」です。
頭の中の“ぐるぐる”を整理するために、このブログで日々のことを書いています。
双極性感情障害の当事者として、就労B型に通いながら、社会復帰を目指す日々を送っています。

精神疾患を抱えて生きていると、「語らないこと」が当たり前だった時代の名残りを今も感じることがあります。言えば誤解されるかもしれない、心配ではなく偏見の目で見られるかもしれない、職場で不利になるかもしれない――そんな理由から、当事者は長い間、沈黙するしかありませんでした。私自身、病名を打ち明ける勇気が出ず、ひとりで抱え込んだ時間がとても長くありました。

けれど近年、少しずつ空気が変わってきました。当事者自身が自分の言葉で発信する時代へと移り、SNSやブログ、動画など、声を出せる場が広がっています。そこには、“理解してほしい”という願いだけでなく、“つながりたい”“共に生きたい”という想いが込められているように思います。

当事者の発信には特別な力があります。それは、専門家の説明とは違う、経験から生まれた言葉だからです。波に揺れる日々の苦しみ、体調の変化の怖さ、人との距離感の難しさ、そして小さな回復の喜び。そうした実感は、教科書には書かれていません。当事者が語らなければ知ることができない領域です。

私自身、他の当事者の発信に何度も救われてきました。「こんなふうに感じるのは自分だけじゃないんだ」と知るだけで胸がほどけるような気持ちになり、孤独が少し薄まります。だからこそ、今度は自分が誰かの心の負担を少し軽くできたらいいと感じています。

しかし、当事者が発信することは簡単ではありません。勇気が必要です。周囲にどう思われるかを考えると、言葉が喉の奥で止まる日もあります。理解してくれる人ばかりではないからです。誤解を恐れて何度も文章を書き直したこともあります。この病気と共に生きる自分を世の中へ出すという行為は、それだけで大きな決断なのです。

それでも発信を続ける理由は、“沈黙では変わらないものがある”と感じているからです。病気の理解は、医療制度や心理学の知識だけでは広がりません。当事者の言葉が届くことで、初めて「誰の身にも起こりうるもの」として実感が生まれます。メンタルヘルスに対する社会の態度がゆっくり変わり始めたのは、多くの当事者が少しずつ声をあげ始めたことと無関係ではありません。

発信とは、大声で主張することではありません。
自分の経験を、無理のない範囲で、誠実に置いていくこと。
そして、誰かがその言葉を必要としてくれる時に、そっと手を差し伸べるように届くものだと思います。

私がこのブログを書いているのも、誰かを導くためではありません。むしろ、対話の入り口をつくるためです。当事者同士の対話、当事者と家族の対話、当事者と社会の対話。沈黙のままでは生まれなかった関係が、たったひとつの文章をきっかけに生まれることがあります。

発信を続けていると、自分自身の理解も深まります。言葉にすることで、自分がどんな波を経験しているのか、どう向き合っているのかが見えてきます。文章を書くことは、治療の一部といえるほどの自己整理の作業でもあります。発信とは、他者に向けた行為であると同時に、自分を回復へ導く行為でもあるのです。

そして何より、発信には「世界に自分の居場所をつくる」意味があります。社会の中で理解されないと感じる時、自分の存在が無色透明になってしまうような孤独に襲われます。しかし、言葉を置いていくことで、確かに“ここに生きている”という実感が戻ってきます。当事者が自分のストーリーを語るという行為は、失われた自尊心を取り戻す静かなプロセスでもあります。

沈黙から対話へ。この変化は、決して派手ではありません。けれど、とても力強いものです。当事者が声を上げられる社会は、誰もが安心して弱さを抱えられる社会でもあります。その未来に向けて、私もまた、小さな声を積み重ねていきたいと思います。

自己肯定感を育てるリハビリ

こんにちは、「さかみちライフ」です。
頭の中の“ぐるぐる”を整理するために、このブログで日々のことを書いています。
双極性感情障害の当事者として、就労B型に通いながら、社会復帰を目指す日々を送っています。

双極性障害と向き合っていると、症状そのものよりも、自己肯定感の低さに苦しむ時間が長いことがあります。うまくいかない日が続くと「自分は何もできない」と思い込み、逆に調子の良い日には「また崩れるのでは」と先に不安が立つ。気分の波がある病気だからこそ、生活の中で“自分を信じる力”が揺さぶられ続けます。

私自身、何度も自己肯定感が底まで落ちた経験があります。働けなくなった時期は特に顕著で、布団の中で「何もできない自分」が頭の中に貼りついて離れませんでした。誰にも必要とされていないような気がして、社会から遠ざかっていくような感覚がありました。そんな時、自分を励ます気力なんてどこにもありませんでした。

しかし、就労Bに通い始めて気づいたのは、自己肯定感は“一度取り戻したら終わり”ではなく、“育て続けるリハビリのようなもの”だということです。生活の中で少しずつ積み重ね、揺れたらまた立て直し、時間をかけて戻していく。そのゆっくりとしたプロセスこそが大切で、焦って一気に高めようとすると逆に苦しくなるのです。

自己肯定感を育てるために、まず必要だったのは「できたことを小さく拾う」習慣でした。私は以前、できていないところばかり見てしまうタイプでした。作業でミスをすれば落ち込み、人より遅いと焦り、相談できない日は自分を責める。ところが、職員さんに「今日はここまでできていますよ」と言われると、意識していなかった小さな成果が浮かび上がってくることがありました。

「通所できた」
「作業を途中で投げずに終えられた」
「疲れを感じる前に休憩できた」
「今日は落ち着いて話ができた」

こうした出来事は、病気の波の中では見落としやすいのですが、実は自己肯定感を育てる大事な栄養になります。自分で拾えるようになってくると、心の輪郭がすこしずつ戻ってくるような感覚がありました。

もう一つ、自己肯定感のリハビリとして大切なのは、「自分と他人を切り離す」ことです。気分が落ちている日は特に人と比べやすく、 周りのペースに合わせられない自分に失望してしまいがちです。しかし、私たちには私たちの波があります。人と違って当然で、違うからこそ自分を調整しながら生きている。その視点を持つと、比較による落ち込みが少し和らぎます。

また、「今日はできない日」と認めることも自己肯定感を守る大事な作業でした。以前の私は、できない日を“怠けている”と解釈し、無理に自分を追い立てていました。けれど、波を記録していくうちに、できない日に無理をすると次の日に大きな反動がくることを実感しました。“できない日こそ、自分に優しくする日”。それを知ってから、落ち込む日が“責める日”ではなく“調整の日”へと変わっていきました。

そして何より、私が自己肯定感を育てるうえで大きかったのは、「誰かに正しく受け止めてもらう経験」でした。医師や職員さん、時には同じように波と向き合う仲間との会話の中で、「あなたの感じていることは普通ですよ」「その状態ならそう思って当然です」と言ってもらえるだけで、自分の心がゆっくり整っていく瞬間がありました。否定されないという経験が、傷ついた自己肯定感をそっと支えてくれるのです。

リハビリという言葉が表すように、自己肯定感は“鍛える”ものではなく“育てる”ものです。急に強くする必要もないし、常に高く保つ必要もありません。揺れながらも再び立ち上がれる力を育てていく。その過程こそが、回復といえるのだと思います。

今日も、自己肯定感が高いとは言えません。でも、それでいいのだと思います。完璧を目指すのではなく、“少しずつ自分を取り戻していく感覚”を大切にしながら、波のある生活を積み重ねていくこと。それが私の回復のリズムです。