双極性感情障害と私の回復ノート

あたらしい朝に向かって、一歩ずつ進む坂道のように。

「躁うつ病」から「双極性障害」へ――呼び方が変わった理由

こんにちは、「さかみちライフ」です。
頭の中の“ぐるぐる”を整理するために、このブログで日々のことを書いています。
双極性感情障害の当事者として、就労B型に通いながら、社会復帰を目指す日々を送っています。

今では広く使われるようになった「双極性障害」という呼び方ですが、少し前までは“躁うつ病”のほうが一般的でした。私自身、この病気について調べ始めた頃は、両方の名称が混在していて、その違いがよくわからなかった記憶があります。けれど、名前が変わった背景を知ると、この変化が当事者にとってどれほど大きな意味を持っていたかが見えてきます。

躁うつ病」という言葉は、病気の特徴をわかりやすく示している一方で、どうしても強い印象を与えてしまいます。“躁”という字からは暴れるようなイメージが、“うつ”には暗く沈むイメージがつきまとい、言葉そのものが偏見を助長する面がありました。病気ではなく“性格の問題”として見られやすいという弱点もあり、当事者が説明しにくい名称でもありました。

一方で「双極性障害」という呼び方は、より中立でニュートラルです。感情が二極に動く病気であることを静かに示すだけで、人格へのレッテル貼りを含みません。医学的にも国際的な診断基準が整う中で、より正確な状態を表す呼称として採用されていきました。病名の変更は、医学の進歩だけでなく、当事者の生きやすさを考えるうえでも重要な転換点でした。

私自身、主治医から「双極性障害」という言葉を聞いたとき、最初は戸惑いもありましたが、説明を受けるうちに「これは性格の問題ではなく病気としての状態なんだ」と落ち着いて理解できたことを覚えています。もしそこで「躁うつ病です」と言われていたら、もっと自分を責めていたかもしれません。病名が持つイメージの影響は、想像以上に大きいものです。

また、「双極性障害」という名前は、周囲の人に説明しやすいという利点もあります。“躁”や“うつ”の直接的な言葉を使わずに、症状の特徴をまとめて伝えられるので、相手が構えすぎずに聞ける。これは、当事者にとって大きな安心につながります。言葉ひとつで、伝える側の負担が軽くなる。これは小さなようで大きな変化です。

もちろん、呼称の変更で偏見が完全になくなったわけではありません。それでも、この新しい名前は、当事者を傷つけにくい言葉として社会の中に根づき始めています。そして、当事者自身がこの病気をどう受け止めるかにも、穏やかな影響を与えていると感じます。

名前が変わるというのは、ただの言い換えではありません。
社会がその病気をどう理解するか、どんな姿勢で向き合うか、その価値観の変化が表れたものでもあります。

双極性障害」という名前のもとで、私は以前よりも自然にこの病気と向き合えるようになりました。名前が軽くなったからではなく、名前の奥にある“理解しようとする姿勢”を感じられるからだと思います。社会が少しずつ変わっていく中で、私もまた少しずつ自分の病気を受け入れられるようになりました。

今日も、自分の波を抱えながら静かに生活を続けています。
呼び方が変わっただけで救われることがある――そう思えるほど、言葉には力があります。

睡眠がすべてを左右する――リズムの整え方

こんにちは、「さかみちライフ」です。
頭の中の“ぐるぐる”を整理するために、このブログで日々のことを書いています。
双極性感情障害の当事者として、就労B型に通いながら、社会復帰を目指す日々を送っています。

双極性障害と向き合っていると、「睡眠がすべてを左右している」と痛いほど実感する瞬間があります。
ほんの少し寝不足になるだけで気分が沈み、逆に眠りすぎると頭がぼんやりして動けなくなる。
睡眠の質が悪いと、翌日の体調だけでなく、感情の起伏、集中力、判断力、そして生活そのものに影響が出ます。

病気を抱えていると、ただ“眠る”という行為が実はとても繊細なバランスの上に成り立っているのだと気づきます。
健康な時には気にも留めなかった眠りが、今では大切な生活の土台です。

かつての私は、睡眠を軽く見ていました。
眠れない日は明け方までスマホを触り、眠れる日は昼まで寝てしまう。
その気ままな生活が体調の波をより大きくしていることに、当時は気づけなかったのです。

ある日、主治医からこう言われました。
「あなたの場合、睡眠が安定すれば生活の半分は整います」
その言葉は最初ピンとこなかったけれど、実際に意識を変えてみると、状況が少しずつ変化していきました。

睡眠を整えるためには、特別なことをする必要はありませんでした。
むしろ、小さな習慣の積み重ねが大きな効果を生むのだと気づきました。

まず、毎日同じ時間に起きること。
これは簡単そうに見えて、気分の波があるときにはとても難しい作業です。
でも「起きる時間だけは守る」というルールをゆるく続けていくと、体が少しずつ一定のリズムを取り戻していきました。

次に大切だったのは、寝る直前の過ごし方です。
スマホを見ない、頭を刺激することを避ける、部屋を暗くして静かに過ごす。
それだけで眠りに入りやすくなりました。
眠ろうとすると焦ってしまう日には、深呼吸をしながら「眠れなくても横になっていればいい」と自分に言い聞かせます。

就労B型の通所が始まった頃、最も苦労したのは睡眠リズムでした。
前の日に眠れないと、朝起きるだけで精一杯になる。
逆に寝すぎてしまうと、通所中に集中力が続かない。
そのたびに、「やっぱり睡眠はすべての土台だ」と感じました。

睡眠が乱れると、気分の波は一気に大きくなります。
ほんの小さなストレスが大きな負担になり、普段なら気にしないことで落ち込む。
その状態で無理をして働けば、また体調が崩れる。
まるでドミノ倒しのように、全部が連動してしまうのです。

逆に、数日だけでも睡眠が整うと、生活は驚くほど安定します。
朝起きられると、それだけで「今日も通所できる」という安心感が生まれる。
気分の落ち込みもゆるやかになり、作業中の集中力も戻ってくる。
小さな成功体験が積み重なり、生活が穏やかに回り始めます。

もちろん、睡眠がうまくいかない日もあります。
布団に入ったのに眠れない、夜中に何度も目が覚める、朝がつらくて起きられない。
そういう日があったとしても、それは「失敗」ではありません。
双極性障害という病気の特性がそこにあるだけです。

大事なのは、乱れた日を責めないこと。
そして、翌日を「立て直しの日」として淡々と過ごすこと。
波は必ず戻ってきます。
だから、焦らず、ゆっくり、自分のペースで睡眠を整えていくことが大切です。

最近の私は、眠れた日は「よかった」とメモし、眠れない日は「そういう日もある」と書きます。
これだけでも気持ちが軽くなり、眠りに対して必要以上に構えなくなりました。

睡眠は、心と体をつなぐ大切なリズムです。
上手に眠れるようになると、回復のスピードが確実に変わります。
そして、「眠れた」という小さな実感が積み重なるほど、生活全体が静かに整い始めます。

今日も、眠りにつく準備を少し早めに始めます。
焦らず、比べず、自分のリズムを大切にしながら。
それが、双極性障害と生きる私にできる、最もやさしい回復の習慣なのだと思います。

“比べないこと”が思ったより難しい

こんにちは、「さかみちライフ」です。
頭の中の“ぐるぐる”を整理するために、このブログで日々のことを書いています。
双極性感情障害の当事者として、就労B型に通いながら、社会復帰を目指す日々を送っています。

「比べないほうがいいよ」
「自分は自分だから」

そう言われることは多いけれど、実際に“比べない”で生きるのは思っていた以上に難しいものです。
頭ではわかっているのに、心が勝手に比較を始めてしまう。
気づくと誰かと比べ、昨日の自分と比べ、できる時の自分と比べてしまう。
それは、双極性障害という波のある病気を抱えているからこそ、より強い痛みとして響くこともあります。

たとえば、体調が良い日の自分と、落ち込んで動けない日の自分。
同じ人間なのに、まるで別人のように感じてしまう瞬間があります。
そして、そのギャップの中で、「どうして昨日のようにできないんだろう」と自分を責めてしまう。
比べる対象はいつも、“できていた時の自分”。
そこに届かない日は、何か大事なものを失ったような気持ちになります。

就労Bに通っていても、比較の感情はふとした瞬間に生まれます。
周りの利用者さんが黙々と作業を進めているのを見て、「自分は遅いのではないか」と不安になる。
職員に確認する回数が多いと、「迷惑をかけているのでは」と自分を下げてしまう。
そしてそのたびに、“比べなくていいんだよ”という言葉を思い出すのに、心はなかなか言うことを聞きません。

SNSを開くと、さらに比較の波は強まります。
元気に働いている人、趣味を楽しんでいる人、成果を出している人。
その投稿を見た瞬間、自分の生活が急に小さく見えることがあります。
私はいったい何をしているんだろう、と。
頭の中で、価値のものさしを知らないうちに握らされているような感覚になるのです。

でも最近、少しずつわかってきたことがあります。
“比べないことは難しい”のではなく、
“比べる材料が多すぎる世の中で生きているから難しい”のだと。

私たちは生きているだけで、否応なく比べる情報の中に放り込まれています。
だから、比べてしまうのは自然な反応なのです。

では、どうすれば少しでも楽になれるのか。
私が試しているのは、「比べる対象を選ぶ」ということです。

たとえば、
“昨日の自分”ではなく、“調子が悪い中でも頑張っている今の自分”を見る。
“周りの人”ではなく、“今日できた小さな一つ”に目を向ける。
“理想の自分”ではなく、“現実の自分”と少し丁寧に付き合う。

こうして比べる軸をやわらかくすると、心の緊張が少しずつほどけていきます。

比べないことを目指すのではなく、
“自分を傷つける比較を減らす”
という方向に変えると、急に生きやすくなる気がします。

双極性障害の波は、比較の感情を強めやすいものです。
気分が落ちている日には、周りが全員輝いて見える。
気分が上がっている日には、自分なら何でもできるように感じる。
その振れ幅の中で“比べない”を続けるのは、確かに簡単ではありません。

でも、だからこそ、自分に対してやわらかい視点を持つことが大切なのだと思います。
比べてしまった時には、
「あぁ、今日の自分は比べやすい日なんだな」
と受け止めるだけで十分です。
責める必要も、否定する必要もありません。
ただ、その気持ちをそっと置いておくだけで、心は少し軽くなります。

就労Bで過ごす日々の中で、私は何度も自分を“比べて”きました。
でも最近は、職員や周りの人の言葉に救われる場面が増えています。
「自分のペースでいいんですよ」
この言葉が、本当はどれほど力を持っているのか。
ようやく、その意味を実感できるようになりました。

比べないことは、完璧にはできません。
でも、“比べすぎて苦しくならない方法”なら、少しずつ身についていきます。
それはきっと、自分を大切にする練習のひとつなのだと思います。

今日も、比べてしまう瞬間はありました。
でも、そのたびに深呼吸をして、心の中でそっと言います。
「今の自分で大丈夫だよ」と。

当事者が語る時代へ――声を上げる勇気

こんにちは、「さかみちライフ」です。
頭の中の“ぐるぐる”を整理するために、このブログで日々のことを書いています。
双極性感情障害の当事者として、就労B型に通いながら、社会復帰を目指す日々を送っています。

精神疾患の“当事者”という言葉には、長い間、どこかひっそりとした響きがありました。
自分が病気であることを隠し、社会の中で気づかれないように過ごす。
そんな時代が長く続いてきました。
私もその一人で、病気について語ることに大きな抵抗がありました。
語れば誤解されるのではないか、引かれるのではないか、仕事に影響するのではないか。
そんな不安ばかりが先に立ち、心の中に蓋をして生きてきました。

でも、ここ数年で少しずつ、確実に変化していることがあります。
それは、“当事者が語る”という行為が当たり前になりつつあることです。
SNSでも、ブログでも、動画でも、自分の言葉で、自分の経験を伝える人が増えてきました。
この変化を見ていると、社会がゆっくりと動き始めていることを感じます。

私自身も、こうして文章にして発信してみて初めて気づいたことがあります。
“語ること”は、自分をさらけ出す行為であると同時に、自分を守る手段にもなるのだということです。

病気のことを隠していると、どうしても「普通のふり」を続けなければなりません。
落ち込む日も元気なふりをして、無理をして、疲れて、あとで大きく崩れる。
その繰り返しが苦しくて、じわじわと自分を追い詰めていく。
でも、“当事者として語る”という選択をすると、自分の中の緊張がほどけていく瞬間があります。

もちろん、誰にでも話せるわけではありません。
語っていい相手と、語らないほうがいい相手がいます。
その線引きは、とても大切です。
無理に理解を求める必要はありません。
でも、安心できる場で、安心できる人に向けてなら、自分の声を出してもいい。
それが、心を軽くするきっかけになります。

就労Bでも、病気について自然に話せる人がいるというだけで救われる日があります。
「今日は波があったんだね」と言ってもらえるだけで、責められない場所があるのだと実感します。
それは、社会の中で失われがちな“安全地帯”のようなものです。

声を上げることは、誰かを勇気づけることにもつながります。
自分と似た経験をした人がいると知るだけで、人は孤独から少し解放されます。
「自分だけじゃない」と思えるだけで、明日が少し生きやすくなります。
私も、他の当事者の発信に何度も救われてきました。
だから今度は、自分が同じような存在になれたらいいと思っています。

当事者が語る時代になったとはいえ、まだ偏見は残っています。
それでも、以前より確実に状況は変わってきています。
声を上げる人が増えれば増えるほど、社会は「見える世界」を広げざるをえなくなる。
その積み重ねの中で、ゆっくりと壁が薄くなっていきます。

大切なのは、「語ること」を正義にしないことです。
語らない選択も尊重されるべきだし、語るタイミングは人それぞれで構いません。
ただ、もし少しでも心が軽くなるのなら、
「語ってみる」という選択肢を持っていてもいい。
それだけのことなのです。

このブログを書く時、私はいつも少し勇気を出しています。
でも、その勇気は決して無理をした勇気ではなく、「自分を生きるための勇気」です。
声を上げたことで、私は自分にとっての“居場所”を少しずつ作れている気がします。

当事者が語る時代へ。
その一歩は、大声でなくてもいい。
囁きのような声でも、言葉にした瞬間、それは確かに前へ進む力になります。

回復とは“波の上手な乗り方”

こんにちは、「さかみちライフ」です。
頭の中の“ぐるぐる”を整理するために、このブログで日々のことを書いています。
双極性感情障害の当事者として、就労B型に通いながら、社会復帰を目指す日々を送っています。

双極性障害の「回復」とは何か。
病気のことを学ぶほど、この言葉は人によって意味が違うと感じるようになりました。
多くの人がイメージする“回復”は、症状がなくなること、波が消えること、もう二度と落ち込まなくなること。
だけど、当事者として生きる私は、ある時ふと気づきました。
“波がなくなる”ことこそが回復なのではなく、
“波の上手な乗り方を覚えていくこと”こそが回復なのだと。

双極性障害の波は、まるで海の満ち引きのように訪れます。
静かな日もあれば、荒れる日もあり、予想外のタイミングで高波がくることもある。
それでも海そのものが悪いわけではないように、私たちの心も“波があること”が本来の姿なのかもしれません。

回復を目指していた頃、私はずっと「波をなくすこと」に執着していました。
落ち込んでも「早く戻らなきゃ」と焦り、調子が良ければ良いほど「また落ちるかもしれない」と怯える。
波そのものを敵にしていた時期です。
けれどその戦い方は、どれだけ頑張っても体力だけが減っていき、心が苦しくなるばかりでした。

そんな私が「波に乗る」という考え方に出会ったのは、主治医との会話でした。
「波は悪ではありませんよ」と言われた時、正直ピンときませんでした。
波のせいで仕事を失い、人間関係に傷がつき、自分を責め続けてきたのに。
どうして“悪ではない”と言えるのか。

でも、その後の言葉が心に残りました。
「波があるなら、波に合わせて生活を組み立てればいいんです」
「自分が落ちやすい時期、上がりやすいタイミング、疲れやすい条件。それを知れば、波に飲まれないで済むようになります」
この言葉が、私の中の“回復”の意味を少しずつ塗り替えていきました。

実際、波を完全になくすことはできません。
薬を飲んでも、通院を続けても、生活を整えても、それでも波は訪れます。
でも、波が来ても「どうしよう」と怯えるだけではなく、
「今はこういう時期だな」「ゆっくり過ごそう」「少し下がってきたな」と冷静に受け止められる瞬間が増えていく。
この変化が、私にとって明らかな“前進”でした。

波に乗るためには、いくつかコツがあります。
まずは、自分の波を知ること。
これは、前回の記事でも書いた“記録”と深くつながっています。
記録していくと、気分の変化だけでなく、
どんな日が過ごしやすいのか、どんな状況がしんどさを招くのか、
そうした「自分の傾向」が見えてきます。

そしてもう一つは、“全部の波に逆らわない”という姿勢です。
落ち込みの日をゼロにしようとすると、かえって落ち込みの深さは増していきます。
上がり気味の日を完全に抑えようとすると、心が窮屈になります。
「今日は力が出ない。だから今日はこれくらいでいい」
「今日は気分が軽い。少し散歩してもいいかもしれない」
こうした柔らかな調整ができるようになると、波との距離が変わっていきます。

就労Bに通い始めてから、その変化は特に実感します。
体調によって作業の負担を調整できること、職員にすぐ相談できること、休憩を挟める環境があること。
こうした支援の存在が、波に乗るための“足場”になっています。

以前の私は、波が来るたびに人生が壊れるのではないかと怯えていました。
でも今は、波が来ても壊れません。
ふらつくことはあっても、沈むだけではなく、また浮かび上がってこれる。
その繰り返しが「生きていること」だと、ようやく思えるようになりました。

回復とは、元の自分に戻ることではなく、
“波とともに生きられる自分になること”。
そう考えると、完璧な日が続かなくても、焦らなくてよくなります。
落ち込む日も、調子の良い日も、どちらも自分の一部。
波に逆らわず、波を観察し、波を扱えるようになっていくこと。
その積み重ねが回復なのだと思います。

今日もまた、ゆるやかな波の上を歩いています。
時々揺れながら、でも確かに前に進んでいます。
その歩みが続く限り、私は回復の途中にいるのだと思います。

安定と不安定のあいだで――波を記録するということ

こんにちは、「さかみちライフ」です。
頭の中の“ぐるぐる”を整理するために、このブログで日々のことを書いています。
双極性感情障害の当事者として、就労B型に通いながら、社会復帰を目指す日々を送っています。

双極性障害とともに生きていると、「安定」と「不安定」の境界がとても曖昧に感じられることがあります。
昨日は落ち着いていたのに、今日は心が重くて体が言うことをきかない。
逆に、特別な理由もないのに気分が軽くなり、やけに何でもできそうな感覚が押し寄せてくる日もある。
こうした“波”は、人には見えません。
けれど、それは確かに私の生活の中に存在しています。

病気を理解してもらうことが難しいのは、この“波”が目に見えにくいからだと思います。
外から見れば普通に歩いているようにしか見えないのに、中では嵐のように気分が揺れていることもある。
そのギャップが、時に孤独を生みます。

だから私は、波を記録するようになりました。
きっかけは、担当医に言われた一言です。
「波を見える形にしていくと、自分のことがわかるようになりますよ」
その言葉がずっと頭に残っていました。

最初は簡単なメモから始めました。
気分が落ちている日には「心が重い」、上がり気味の日には「落ち着かない」、普通の日は「安定」。
ほんの一行の記録でも、続けていくうちに思った以上の変化が見えてきます。

しばらくすると、自分の波には一定の“パターン”があることに気づきました。
天気が悪い日は落ち込みやすい。
睡眠が浅い日は焦りが出る。
逆に、通所して人と少し話すと落ち着く。
こうした傾向が、少しずつ見えるようになってきたのです。

波を記録すると、悪い日を“責める対象”ではなく、“理解の対象”に変えられます。
「どうして今日こんなにしんどいの?」
と責めていた自分が、
「昨日あまり眠れなかったからだな」
「この数日ストレスがたまっていたからだ」
と原因を理解し、必要以上に落ち込まずに済むようになります。

就労Bでも、波の記録は役に立っています。
体調を振り返る欄を書くとき、自分のメモがそのまま役に立つ。
職員に伝えるときも「今日は少し波が来ています」と言えるだけで、作業の負担が調整され、無理をしなくて済みます。

波を記録することは、未来の自分の助けにもなります。
例えば、過去の記録を見返すと、「この時期は不安定になりやすい」という傾向が見えてくる。
すると、その期間に合わせて生活のペースを落としたり、予定を詰めないようにするなど、予防ができるようになるのです。

波を記録するときに大切にしているのは、感情を細かく書きすぎないことです。
書きすぎると、それ自体が負担になります。
短い言葉で、今の状態を“置いておく”だけで十分です。
書いた途端、心の中の渦がすこし落ち着くこともあります。

また、記録は「良い日」にも意味があります。
気分が安定している日を見つけられると、自分でも驚くほど安心できます。
不安定な日ばかりに目が行きがちですが、実際には「穏やかに過ごせている日」もちゃんとある。
その事実を確認するだけで、未来に対する恐怖が和らぎます。

波を生きるということは、安定だけを目指すことではありません。
不安定さも含めて、自分のリズムとして受け止めること。
そして、そのリズムを少しでも理解し、少しでも付き合いやすくすること。
そのために、記録という方法はとてもやさしい手段だと思います。

私にとって波を記録することは、逃げ道でも、戦い方でもなく、“寄り添い方”です。
自分がどんな時に沈み、どんな時に上がり、どんな時に安定するのか。
それを知るほど、病気との距離が少しずつ変わっていきます。

波があることは、もう恥ではありません。
波があるからこそ、工夫ができる。
波を知っているからこそ、自分を守れる。
そんなふうに思えるようになってきました。

今日もまた、短くメモを書きました。
「少し落ち気味。でも歩けている」
この一言が、明日の私を支えてくれるかもしれません。

“普通に働く”とは何か――社会とのズレを抱えて

こんにちは、「さかみちライフ」です。
頭の中の“ぐるぐる”を整理するために、このブログで日々のことを書いています。
双極性感情障害の当事者として、就労B型に通いながら、社会復帰を目指す日々を送っています。

“普通に働く”とは、なんでしょうか。
この言葉を聞くたびに、どこか胸の奥がざわつきます。
社会が使う「普通」という基準と、自分が生きてきた現実との間に、ずっと埋まらない溝のような距離を感じるからです。

学校を卒業して、会社に入って、毎日同じ時間に出勤して、決まった仕事をこなして、帰ってくる。
世の中の多くの人にとっての「普通」は、こんな流れなのかもしれません。
けれど、双極性障害という波のある病気を抱えて生きてきた私にとって、この「普通」はとても高いハードルでした。

体調が安定している日は人並みに働ける。
でも、突然気分が沈んだり、焦燥感が強くなったり、眠れなかったり、逆に気持ちが高ぶりすぎたり。
自分の中で予測できない変化が起きる。それが双極性障害の現実です。

それでも私は、「普通に働かなくちゃ」と思い続けていました。
社会人として当たり前のことができない自分は劣っている、とそう思い込んでいたからです。
無理をして働き、無理をして笑い、無理をして「普通」であろうとした結果、何度も体調を崩し、仕事を失い、自己嫌悪だけが残りました。

“普通に働く”って、本当にそんなに絶対的な価値なのだろうか。
最近は、そんな問いをよく考えるようになりました。

就労Bに通うようになってから、働くという言葉の意味が少し変わりました。
「完璧に働く」でも「人並みに働く」でもなく、
“自分の体調と向き合いながら、自分のペースで働く”
という選択肢が実際にあるのだと知ったからです。

朝、体調を確認し、ゆっくり準備し、決まった時間に通所する。
できる範囲で作業をし、無理があれば休憩する。
困ったら職員に相談する。
こうした積み重ねが、私にとっての「働く」という行為になりつつあります。

ここには、これまでの職場で求められてきたような“完璧さ”はありません。
むしろ、自分の弱さや体調の揺れを前提にしながら進める、やわらかい働き方があります。

そして、その働き方を受け入れてくれる環境がある。
そのことが、どれほど心を救ってくれているのか、言葉にするのは難しいほどです。

一般就労をしていた頃の私は、毎日が「ずれ」との戦いでした。
周りは普通にこなしているのに、自分だけつまずく。
つまずいた自分を責める。
責めるうちに動けなくなる。
動けなくなると、もっと責める。

そんな負のループの中で、私はずっと「普通」と「自分」を比較し続けていました。

でも最近は、違う角度から考えるようになりました。

“普通”は、人によって全然違う。
社会が決めたテンプレートの中に、全員が収まる必要はない。
まして、病気を抱えている私が、そのテンプレートに無理に合わせようとする必要はない。

働き方の形は、一つじゃない。
働くスピードも、一つじゃない。
求められる力も、一つじゃない。

そう気づくことで、自分の中の“社会とのズレ”が少し優しいものに変わっていきました。

就労Bに通えるようになって、自分の中で大きく変わったことがあります。
それは、働くことが「競争」ではなく、「生活の一部」に変わったことです。
無理に背伸びせず、自分が保てるペースで働く。
それでもちゃんと「働いている」と言っていい。
その当たり前を受け入れられるようになってきました。

“普通に働く”という言葉は、人によって重さが違う。
私にとって、その言葉は長い間プレッシャーの象徴でした。
でも今は、自分に合った形で働くことを「普通」と呼んでいいのだと思えるようになっています。

これから先、また一般就労に挑戦したい気持ちが出てくる日もあるかもしれません。
あるいは、今のようにゆっくり働きながら力を蓄える生き方を続けていくかもしれません。
どちらに進むにしても、もう“社会の普通”に合わせることが目的にはならないでしょう。

大事なのは、「自分の普通」を自分で育てること。
その普通が、私の生活を守り、体調を安定させ、未来につながっていく。

そう思えるようになった今の自分を、以前より少しだけ好きになれています。